李登輝元総統が死去=台湾に本格的民主主義もたらす、日本評価を貫いた生涯

台湾の李登輝元総統

中華民国(台湾)の李登輝元総統が7月30日に、台北市内で死去した。97歳だった。政権の現場から離れて久しかったが、容体の悪化が明らかになった29日午前には、蔡英文総統、頼清徳副総統、蘇貞昌行政院長(首相)が見舞いに訪れたなどで、後輩政治家にとっては今なお、精神的支柱であったことが改めて浮き彫りになった。

本人が使用してきたローマ字表記はLee Teng―hui。中国大陸で用いられるローマ字表記ではLi Denghui。中華民国の第7代総統代行、第8、9代総統。総統代行時代を含めて任期は1988年1月13日-2000年5月19日。

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■日本統治下の台湾で生まれる
1923年1月15日、日本統治下の台湾・台北州淡水郡で警察官だった李金龍と妻の江錦の次男として生まれた。日本統治時代に用いていた名は岩里政男。2歳年上の兄、李登欽(日本名:岩里武則)は日本海軍の機関兵となり、フィリピンで戦死した。弟の李炳男は貿易業務に従事していた。

幼少時から教育環境には恵まれ、学業成績は優秀だった。淡江中学校は首席で卒業し、台北高等学校に合格した(いずれも旧制中学・高校)。

1943年に京都帝国大学農学部農林経済学科に入学。マルクス関連など社会主義にも関心を持った。44年には学徒出陣で徴兵され、台湾で訓練を受けたのち、習志野陸軍予備士官学校の見習士官となった。次いで名古屋の高射砲部隊に陸軍少尉として配属され、終戦を同地で迎えた。

■終戦後は台湾に戻るも2.28事件で生命の危機
1946年の春に台湾に戻り、台湾大学農学部に編入学した。当時の台湾では、国民党関係者を中核とする日本の敗戦以降に中国大陸からわたった中国人である「外省人」が、日本統治時代とそれ以前からの台湾住民である「本省人」を強権的に支配する社会構造が形成されていた。国民党が大陸で勃発した共産党との戦い(国共内戦)の戦費を強引に調達しようとしたこともあり、台湾経済は混乱した。47年2月28日には、たばこ密売の取り締まりをきっかけに、本省人による外省人支配への大規模な抵抗運動が発生。国民党側は苛酷な弾圧を実施した(2.28事件)。

同事件では本省人約2万8000人が殺害・処刑されたとされる。多くの場合には確固たる証拠もなく、裁判もなしで処刑が実行された。日本で教育を受け、軍にも籍を置いた李登輝元総統にとっては極めて危険な事態で、知人の蔵にかくまわれたという。なお、李登輝は1992年、中華民国総統として2.28事件についての公式謝罪を行っている。

台湾出身の中国共産党員で2.28事件のため大陸に逃げた呉克泰は、李登輝は台湾に戻った後の46年9月の時点で共産党に入党したと証言した。呉は中国大陸で設立された台湾民主自治同盟の重鎮にもなり、全国政治協商委員を務めるなどの重要人物であっただけに、同証言は注目された。

李登輝は中国共産党が組織した読書会のメンバーになったが、正式党員にはならなかったなどと説明した。また、李登輝が台湾に戻ってからの短い時間では、共産党員になることはできなかったとの見方もある。いずれにせよ、李登輝の「共産党員問題」は謎の部分が多いが、本人は自分自身が共産主義者だったことは認めており、「共産主義理論をよく理解しており、共産主義が失敗する運命にあることも知っていた」などと述べた。

1948年に農学学士号を取得。49年に台湾大学を卒業し、同大学農学部の助手になった。52年には米アイオワ大学に留学。農業経済学を専攻した。

1953年にはアイオワ大学で農業経済学の修士号を取得。台湾に戻り、国立台湾大学で教官を務めると同時に台湾省農林庁および台湾省合作金庫の研究員を兼務した。57年には中国農業復興聯合委員会(農復会)に研究者として就職した。65年には米コーネル大学に留学し、農業経済学博士号を取得した。

■蒋経国の知己を得て政界入り、異例の抜擢
帰国後の1969年には要注意人物として、台湾当局に取り調べを受けた。その後、農復会の上司を通じて、蒋介石の息子であり後に中華民国総統となる蒋経国の知己を得た。蒋経国は李登輝を高く評価。蒋経国の勧めがあり、李登輝は国民党に入党した。1972年に行政院長に就任した蒋経国は李登輝を行政院の政務委員(閣僚)に任命した。

李登輝は1978年には台湾市長に、81年には台湾省主席に就任。84年には「中華民国副総統」に就任。88年には蒋経国総統の死去にともない、総統(当初は代行)に就任した。

台湾では戦後の国民党進出以来、極端に強権的な政治が続いていた。1949年5月に始まった戒厳は1987年まで続き、多くの台湾人が投獄・処刑された。米国で「非民主的」と非難が高まったことなどで、蒋経国も台湾民主化の姿勢を示していた。李登輝政権は民主化を本格的に進め、1992年には刑法を改正して言論の自由を認めた。96年には台湾初の総統選挙を実施。国民党所属(主席)の候補者として選挙に臨み圧勝した。

2000年には後継者に指名した連戦氏が総統選に敗北。責任を取る形で国民党主席を辞任した。しかし連戦新主席との間に確執が発生し、国民党を離れた。

2001年には心臓病の治療のために来日。中国政府はこの来日に反対し、日中の外交問題になった。

2002年には慶応義塾大学の学術サークルに招待される。同大学の学園祭である三田祭での講演を行うのが主な目的だったが、日本政府はビザの発給を拒否した。

2004年、観光目的で来日。このときも中国政府は「李登輝の訪日は、実際には政治的な意味がある」などとして、強く反発した。ただし、その後の訪日について中国政府はさほど強く反発しないようになった。

2012年には「命の旅」と称して台湾全土を巡る旅を開始。台湾最高峰の玉山(ユーシャン)への登山は健康上の理由により医師に止められたが、李登輝は「私が死んだら遺灰を玉山にまいてほしい。玉山から台湾を見守りながら永遠に台湾と共にいたい」と語った。

2014年には中国大陸とのサービス貿易協定を強引に成立させようとした馬英九政権に学生や市民が反発して立法院(国会)を選挙するなど猛烈な抗議運動を展開した際には、学生らを支持する姿勢を明確にした。

その後も、日本統治時代に放牧が始まった台湾の短角黒牛に和牛の但馬牛のDNAが残存していることを知ると、2016年には「台湾和牛」の開発を目指して牛の飼育を開始。17年には子牛を誕生させるなどの活動を続けた。李登輝は新たな品種として「源興牛」と名づけ、頭数を増やしつつ遺伝的特徴や飼育法についての研究を進めるなど、最晩年になっても台湾の農業や農家に貢献する活動を続けた。

2020年2月8日には、自宅で牛乳を飲んだ際にむせ込んで、咳が止まらなくなった。搬送先の病院で検査を受けたところ、肺湿潤が見つかり、治療を続けていた。

■知日派の代表的政治家、中国政府にとっては警戒の対象
中国政府が李登輝氏の言動に対して敏感に反応するのは、台湾独立派の「象徴的存在」として警戒しているためだった。また、台湾生まれで京都帝国大学に学び、「私は22歳まで日本人だった」などと発言したことも、大陸メディアが批判する理由になった。

内政面では総裁の直接選挙を実現させ、「三選禁止」など独裁政権の成立を防止する規則も成立させたことで、「台湾に本格的な民主主義をもたらした」などと評価されている。しかし総統在任期間中、台湾政界で多くの汚職が明るみに出たために「金権政治をもたらした」という批判も出た。李登輝自身も2011年に公金横領や資金洗浄の罪で起訴された(13年に台湾地方裁で無罪判決)。

尖閣諸島については「日本のもの」との主張を明確にし、同島の領有権を主張する中国大陸や台湾を批判した。「他人の妻が美しいからといって、自分の妻と言うのと同じ」などと皮肉ったことで、中国や台湾でも強く批判されることになった。

マレーシアのマハティール元首相などと並んで、親日的なアジアの政治家として代表的な存在だった。日本の経済力や技術力だけでなく、それらを生み出した「日本精神」を高く評価し、自らの国の発展のために参考にすべきとの主張が特徴だった。

■台湾中部地震での支援に感謝、東日本大震災で日本に「恩返し」
総統就任時の1999年9月21日に発生した台湾中部大地震では、日本が世界で最も早く救援隊を派遣し、規模の面でも世界最大だったことに、感謝の意を示し続けた。

同地震では、日本側から送られた既存の仮設住宅が台湾製の仮設住宅よりも小さくて見劣りした。李登輝総統は、「(最大限の支援をしてくれている)日本のメンツを傷つけてはならない」として、日本からの仮設住宅に家電製品一式をつけて被災者に提供するよう手配した。

2011年3月11日に発生した東日本大震災では、台湾は発生当日に救助隊を結成し、即時派遣できるよう待機させたが、日本側は国交がない台湾に対して「救助隊の要請はもっと先になる」などと回答。台湾救助隊の日本到着は結局、14日になった。李登輝は1999年の台湾中部大地震が発生した際の日本の救援活動を念頭に、東日本大震災に対する台湾の支援活動について「少しは恩返しができただろうか」と述べたという。