モンゴル人の大歌手、ハージャブ先生のエピソード

内モンゴル出身の大歌手、ハージャブ氏

内モンゴル出身の大歌手として知られたハージャブ先生についてのエピソードをご紹介します。私が直接に教えていただいた話もありますし、伝聞もあります。本日は、FBなどでモンゴル音楽についての書き込みなどしたので思いつきました。記録に残しておかないと、忘れられてしまう話もありそうなので……。

ハージャブ先生(以下、モンゴル人の習慣を尊重して「ハ老師」と記述)は1922年に現在の内モンゴル自治区シリンゴル盟アブガ(アバグ)旗で生まれました。内モンゴルでは自治区が成立する1947年まで地方領主が存在し、「宮廷音楽」も伝えられていました。

ハ老師によると、宮廷楽師や宮廷歌手はプロの音楽家ではなく、その領地内で最も優れた音楽家が務めたということです。また、定期的に「試験」があり、入れ替えもあったそうです。

ハ老師は、宮廷歌手を務めた時期には百数十曲の歌を覚え、いつでも歌えるようにしていたとのこと。これはものすごい数です。オペラ歌手なんかでも、そんなことができるかどうか。

内モンゴルの宮廷関係者や宗教関係者は、社会主義の世の中になってから「とてもひどい目」にあうことが多かったのですが、ハ老師はモンゴル族を代表する歌手として認められ、その後も活躍することになりました。そのあたりの経緯は、質問することをはばかってしまいました。ちょっと後悔しています。宮廷歌手と言っても王族などではなく、普段は一般の牧民として生活していたので「特にお咎めはなし」ということになったのかも、と想像しています。

私がお会いした時期のハ老師は「陽気なおじいさん」といったお方でしたが、周囲の人によれば、「感情がとても深い人」だったそうです。そんなエピソードの一つを聞いたことがあります。

ハ老師は1980年に日本に行ったことがあるのですが、その時、一人の日本人がイベント会場にラジカセを持ってきて「これはモンゴルの歌の古い録音なんですけど、どのような人が歌ったか分かりますか?」と尋ねたそうです。

ハ老師は、その歌声が流れはじめたとたんにわっと号泣してしまい、かなりの間、泣き続けていたそうです。ようやく落ち着いたので周囲の人が「どうしたのですか?」と尋ねたところ「これは私の先生。先生の声を聴いたのは何十年ぶりだろうか」と言って、涙を流し続けていたそうです。

その音源は、日本が戦前に「蒙古の音楽家」を招いて昭和天皇への御前演奏などした際に、コロムビアのスタジオで吹き込んだものでした。当時のコロムビアは、国策の一環としてアジア各地の音楽を録音・保管していました。コロムビアの倉庫は空襲を逃れたので、当時の音源は全て残っているとされています。

私は中国人の音楽研究者の先生から「コロムビアの音源はとても貴重。なんとか入手することはできないか」と、よく言われました。そこで、民族音楽の名プロデューサーとして知られた星川京児さんにも聞いてみたのですけど、「古い音源は膨大で、整理しなきゃ使い物にならない状態なんだけど、どうもやってくれないみたいだ」とのことでした。

ただ、膨大な音源の中のほんの一部だけが「東亜の音楽」というタイトルでCD化されました。ハ老師に聴いた音源は、「東亜の音楽」の収録曲でした。

CDには、歌手の名が「チムドン」と記載されていました。ハ老師の先生は「ティムドン」という人ですから、間違いありません。

それにしても、師匠を思う感情の深さはもちろんですけど、何十年間も聞いていなかった師匠の歌声が、たちどころに分かったことにも驚いてしまいます。

とはいえ、ハ先生は普段、冗談なんかを連発して周囲の人をいつも笑わせていました。私がお会いした際にも、ちょっと古いモンゴル族音楽家の名を出して「今、どうされていますか?」と尋ねると、首をガックリと傾けてて白目を剥く仕草。要するに「死んでしまったよ」ということです。不謹慎極まりないのですが、その仕草があまりにも面白いので、私を含めて周囲は大爆笑でした。

ハ老師はまだ若いころ、これまたモンゴル族の音楽家として大巨匠になった馬頭琴演奏家のチ・ボラグさん(以下、チ老師)とともに、北京にある中央音楽学院に招かれて、モンゴル音楽を披露することになったそうです。その直前にお二人は北京の街をぶらついたのですが、喉が渇いたのでビールを飲んだそうです。

最初は、演奏前なので「ちょっとだけ」のつもりでしたが、ハ老師は大の酒好き。「北京のビールは美味い」なんて、次々に飲んで、“調子”をすっかり上げてその他の酒にも手を出して、すっかり「出来上がった」状態になってしまったそうです(チ老師はあまり飲まず、ほぼシラフだったそうです)。

さて、いくら酔っても、演奏はせねばなりません。とこがハ老師はその直前にしゃっくりが始まってしまい、止まらなくなりました。チ老師が心配して「大丈夫ですか?」と尋ねると、ハ老師は「なに、かまやしない」といってそのまま歌うことに。

ハ老師が最も得意としたのはオルティン・ドーと呼ばれる、ゆったりとした歌です。日本の追分節にも似た、モンゴル伝統の民謡です。

チ老師によると、ハ老師が歌の途中で妙なしゃっくりをするたびに、北京中から集まった音楽研究の第一人者である先生方が、メモをしていたそうです。演奏後には「モンゴル族特有の息継ぎの方法だ」なんてささやく声も聞こえたそうです。

ハ老師の歌は「特に洗練されていない素朴な歌声」のようにも聞こえますけど、細かいテクニックが施されています。また、師匠のティムドンの歌い方と比較できるのはわずか1曲ですけど、ご自身の工夫も追加されています。それから、普通に入手できる音源は50代かそれ以降の録音なので、音色については残念ながら輝きが失われて「特に洗練されていない」と感じるのかもしれません。

ハ老師とチ老師が北京に行ったこの時には、別のエピソードもあります。街をぶらついていた時に、焼き栗を買い食いしたそうです。ハ老師は「これは旨い!」とすっかり気に入ってしまいました。そこで「もっとたくさん買おう」ということで、別の店で「焼き栗はありますか」と尋ねようと思ったのですけど「栗」という中国語が分かりません。

今のモンゴル族ならば、間違いなく知っているはずですが、ハ老師の年代の人は、中国語が苦手な人も、それほど珍しくなかったそうです。

困ったハ老師は店の人に「有没有兎子的蛋子?」と尋ねて、自分の股間を指さしたそうです。要するに「兎のキンタマはありますか?」と尋ねたわけです。モンゴル語では「栗」を「トーロイン・ボール」と言います。「トーロイン」は「兎の」、「ボール」は「睾丸」です。まあ、日本語に「オオイヌノフグリ」という植物名があるのとよく似ていますね。

でも、それを直訳して「兎のふぐり」なんて言っても通じるワケがない。店の人は怪訝な顔をして「ありません」と言ったそうです。

二人はその時、モンゴルの民族衣装を着ていたそうです。一目見て、モンゴル人とまるわかり。ハ老師は焼き栗を買い損ねてしまったわけですが、チ老師は「北京で、モンゴル人は兎のキンタマを食らうという噂が広まったかもなあ」とおっしゃって、笑っていました。

そうそう。ハ老師は私のことを「ナリン・フン」と言っていました。モンゴル語では日本のことをロシア語由来の「ヤポン」という名で呼ぶのですが、内モンゴルではかつて、日本のことを「ナリン・オルス」、日本人を「ナリン・フン」と呼んでいました。「ナリン」は「太陽の」で「オルス」は国、「フン」は「人」です。年配のモンゴル人は今でも、日本人のことを「ナリン・フン」と言う人がいますが、ハ老師もそんな人でした。日本や日本人をそういう風に呼ぶモンゴル人には、かつての日本のイメージがかなり強く残っているかもしれません。

ハ老師は歌手を引退してから、故郷のアバガに戻られました。仕事をしていた自治区政府所在地のフフホトで生活しつづけることはできましたし、功績が認められて「希望するなら北京に部屋を提供する」とも言われたのですが、「私が住む場所は、やはり大草原がふさわしい」とのお考えだったそうです。

故郷に戻られてからは、地元の若者を集めて歌を教えていらっしゃいました。優秀な歌手を十数人ぐらい選抜して、フフホト市内で発表会を行ったことがあります。私も行ってみたのですけど、出場する十代の女の子が皆、「化け物」みたいなメイクをしているのですね。

普段は牧民として生活しているので、皆さん、日焼けしていて真っ黒。お化粧の習慣なんかない。その上に「舞台上では、普通よりも派手なメイクをする必要がある」とかなんとか聞かされていたので、思いっきり「塗りたくった」みたいです。

でもそのことで、ハ老師は「草原に住む普通のモンゴル族の若者に、モンゴルの歌を伝えていってほしかったのだなあ」と、強く思いました。

2005年没。本当に惜しい人を亡くしてしまったのですが、時代に翻弄される面はあっても、自分の才能を十分に発揮して大きな実績を残した。いつも陽気に周囲を笑わせていた。自らが使命と考えた後進の育成を晩年までできた。本当に充実した人生だったのだなあと考えています。

音楽

Posted by 如月隼人