今宵は、ちょっとだけ

本日はなぜか疲れてしまって……。

朝から体がだるくてしかたなかったので、やけくそで記事を書いていたけど、本数はいつも以上になったが、後から見ると、やっぱり表現上の「いまいち」が多い(栃木県とは関係ない)

こちらの想定とはずいぶん違うコメントが多かったことで分かります。反省しました。


ということで、自戒の念を込めて、私が記事の文章を書く際に、気をつけていることを、ちょっとだけご紹介します。 他の記者とか、社内の他の部署の人が文章を書く時に、多少のアドバイスをすることもあるのですが、「あ、勘違いしているなあ」と思うことがある。


よく気づくのは接続詞の使い方です。高校までの作文の授業なんかで「接続詞を上手に使って、文意をはっきりさせる」なんて指導を受けたと聞くことがあります。


学術論文なんかだったらその通りでしょうが、その他の文章の場合には「そうでない」と私は考えています。


文章を書く上で、必ず頭に入れておかねばならないことは、「読み手の意識、あるいは精神状態の変化を想定すること」と思っています。1文ごとに、あるいは1単語ごとに、読み手の脳には、新たな情報がインプットされるわけです。その時点で、意識あるいは精神状態が変化する。それを繰り返して、最後まで読み終えた時に、読む前とは違う意識あるいは精神状態になっている、というわけです。


読んでいて、スムーズに理解できる文章というのは、「読み手の意識を上手に誘導している文」だと思います。無理なく自然に、相手の意識を「流していく」ということかな。


とすれば、接続詞は本質的に「夾雑物」ということになる。読み手の意識の流れの方向を、強引に変えねばならないときに、つかう道具だからです。特に、逆接の「しかし」とか「ただし」なんてことばにその傾向が強い。


私は、記事を書く際に、できるだけ接続詞を使わないようにしています。「接続詞に頼るようでは、よい記事ではない」との考えです。書き終えてから見直して、接続詞をかなり取ってしまいます。取れないようだったら、前後の表現を吟味して変えてみたりする。「これは、接続詞なしでは無理かな」とか「接続詞があった方が、リズム感がよいかな」と思える場合だけ残します。


それからもうひとつ。1文の長さはできるだけ短めに。文の終わり、つまり「。」が置かれている場所って、読んでいていったん“小休止”しますよね。この時に、頭の中ではそれまでに得た情報の整理をしているわけです。情報の区切りを頻繁にして、頭の中を整理してもらった方が、読む方にとっては、具体的なイメージがわきやすいわけです。私の場合には文が短くなりすぎて、かえって分かりにくくしてしまう場合があるので、その点は注意しています。


そうそう、「具体的なイメージ」なのですが、描写性の強い記事の場合には、その文章によって視覚あるいは音、あるいはその他の感覚のイメージが矛盾なく構成できるかということを考えます。


イメージが構成できない、あるいは文字面では破綻なくても、イメージに不自然さが出てしまう文章は、それだけで失格と思っています。


中国から配信されてくる記事に、実は「イメージを考えれば不自然」という手のものが多いんですよ。それをどう、原文から離れないかぎりにおいて日本語の記事に仕上げるかというのが、こちらの腕の見せどころと考えています。


では、なぜ中国の記事に、そのような「中途半端な文章」が多いかということですが、その点については、いずれまた、私の考えをご紹介したいと思います。


今宵は疲れた。久しぶりに「大地の歌」を聞きながら、眠るとします。