台湾が「国語法」制定へ、中国は「文化面の独立運動」と警戒

台湾で23日、国家語言発展法(国語法)案の第1回公聴会が行われた。台湾では戦後の国民党進出に伴い北京語など中国北部方言をベースとする中国の標準語が「国語」の名で公用語とされてきたが、「国語法」は各エスニック・グループの母語をいずれも「国家語言(国の言語)」として重視する。大陸では同法を「文化における台湾独立」として警戒する見方が出始めた。

台湾・国語法案は、「国語」、「台湾語」、「客家語」、「原住民族語」をすべて「国家言語」として扱い、国家言語はすべて平等であり、「国家言語の使用で差別や制限を受けない」としている。また、将来は「台湾手話」を制定して国家言語のひとつとする方針だ。

さらに、原住民語を念頭に「伝承が危機的状況にある国家言語については政府が優先的に保護や復興などの特別措置を行う」としている。

台湾政府・文化部(台湾文化省)の鄭麗君部長(文化相)は23日の公聴会で、同法案は言語における「一元化から多元化」を目指したものとして、来年(2018年)には台湾語のテレビチャンネル開設を促進するための補助金予算を設ける考えを明らかにした。

鄭部長は、台湾語のテレビチャンネル開設のためには、「公共電視法(公共テレビ法)」の修正も必要との考えを示した。同法では、台湾の伝統文化を紹介する番組では「特色を表現するために地方語で放送する場合には中文(国語)の字幕をつける」などと定めているが、台湾語チャンネルでは「国語」の字幕なしで放送を可能にすることなどが念頭にあると思われる。

23日の公聴会出席者からは「国語の名称を撤廃して、華語または普通話とするべき」、「台湾本土の言語を傷つける華語は国家言語から除外すべき」などの意見も出た。一方で「国語法の制定は脱中国化とは無関係と強調すべき」との発言もあった。

中国では人民日報系の海外網が24日、台湾での国語法の制定を警戒する論説を掲載。文化における「脱中国化」として批判が集まっていると論じた。

記事は台北市内に本部を置く中国文化大学の龐建国教授が、「台北市以外では、閩南語(解説参照)が優勢。文化の断層の問題はない」、「国家言語発展法の本質は脱中国化であり、文化における台湾独立だ」と発言したと伝えた。

その他、台湾でも「国語法」制定にして、大陸だけでなく台湾でも多くの批判が発生していると紹介した。

ただし中国メディアは、台湾で中国側の意に反する動きがあると、台湾でも批判が発生することを強調し、台湾における支持の声は無視するか「特殊な意見」として扱うことが常だ。中国人読者を台湾の民意についての誤解する一因になっていると考えられる。

中国文化大学は1969年、「台湾は中国の一部であり、中国大陸部とは違い中華の伝統文化を守り抜く」との立場で設立された。創設者は浙江省出身で、1954-58年には教育部長(文部省)も務めた張其〓氏(〓は「均」の土へんを日へんに変える)。
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◆解説◆
台湾では戦後に国民党が進出して以来、中国北部方言をベースとする言葉が「国語」と呼ばれ公用語とされてきた。この場合の「国語」とは「中華民国の言葉」の意。中華民国は清朝宮廷で話されていた役人の言葉をベースにした「国語」を公用語とし、そのまま台湾に持ち込んで使用を強制した。

台湾に移植された「国語」は、中国大陸で用いられている標準語の「普通話(プートンホワ)」に極めて近く、発音に古い特徴を残している場合があったり語順が多少異なる場合があるが、中国人と台湾人は問題なく会話できる。

戦前からの台湾住民にとって「国語」は「見知らぬ言葉」だったが国民党政権により、学校などを始めとする公の場における固有の言葉の使用は禁止された。そのため、先祖から台湾に住んできた人の子孫(本省人)でも、世代によっては古くからの土着の言葉をうまく使えない人が多い場合がある。

最も多くの台湾人が母語とするのは福建語系の閩南語(ミンナンユー・びんなんご)だ。閩南語の話者は人口の7割以上とされている。

閩南語は「台湾語」と呼ばれる場合が多いが、台湾には客家語(はっかご)や、中国語とは別系統の原住民族(先住民)の言葉を母語とする人もいるので、「台湾語」の呼称は不適切との意見もある。閩南語の話者は「ホーロー」と呼ばれるので、閩南語は「ホーロー語」と呼ばれることもある。また、台湾の閩南語は福建省の言葉とやや異なるとして「台湾閩南語」と呼ぶ場合もある。

台湾には古くから原住民族が住んでいたが、17世紀初頭にはオランダ人やスペイン人が進出した。とくにオランダの東インド会社は労働力として福建省や広東省の住民を大量に移住させた。中国大陸では1644年に李自成の反乱により明朝が滅亡。さらに清朝が統一を進めた。明朝復活を目指した鄭成功は台湾を拠点とし、オランダ勢力などを駆逐した。

鄭成功が死去し、息子が清朝に投降すると、清朝が台湾に進出することになった。とは言っても、清朝に台湾を開発する意図はなく、大陸にちかい西海岸の一部に拠点を置いただけで、「化外の地(皇帝に服さない地)」の位置づけだった。

言語の面では、台湾で増えていった大陸の移住者は、出身地の言語を使い続けた。しかし、公式な言語の整備や整理は行われなかった。1895年に始まった日本の統治時代には、台湾固有の言語の研究などは盛んにおこなわれたが、公用語は日本語だったので、閩南語などの整備が行われたわけではない。戦後になっても閩南語など台湾固有の言葉は公用語ではなかったので当局が整備を行うことがなかった。

そのため、閩南語などでは漢字表記も完全には確定されていない。文章にする場合でも、「発音は全く異なるが、意味が同じ『国語』の漢字を当てる」、「台湾語で発音が同等の文字を当てる」部分を残さざるをえないなどで、「権威をもって完全に統一された表記」は出現していない状態だ。

住人の多くが母語としながらも歴史の経緯が原因となり整備されてこなかった台湾固有の言語は、言語として「極めて不幸な歴史の制約を受けきた」と言わざるをえない。(編集担当:如月隼人)

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