「崖っぷちの村」で希望の暮らしを享受する愚公の子ら(1/6)=河南省・郭亮村

中国で「愚公、山を移す」と言えば、知らない人がいないほど有名な話だ。愚公という男が、自分の家の前にある大きな山のせいで家への出入りが妨げられていると思い、家族総出で山を崩すそうと思い立った。

それを知った人が「人の力で山を崩せるわけがない」とせせら笑った。愚公は「われらの世代で無理ならば、子らが。子の世代でも無理なら孫らがと、子々孫々山を崩す。山が増えることはない。人はいつまでも絶ない。だから、いつかは必ず、山を移すことができる」と話したという。

「愚公、山を移す」は古典の「列子」にある話だが、毛沢東が1945年6月に行った演説で引用したことで一般庶民も知ることになった。毛沢東はまだ弱小勢力だった共産党を愚公に、大きな山を国民党と日本に例えた。「愚公、山を移す」の結末では、愚公の心意気に感じた天帝が、山を動かしたことになっている。

さて、「現代版愚公」と言える人がいた。河南省の郭亮村の人々だ。崖の上にあり外界から隔絶していた村に、トンネルを含む道路を作りあげたのだ。いや、この村の人々は愚公よりもすごかったと言えるかもしれない。天帝に助けてもらう僥倖などはなく、重機も用いずにすべてをやり抜いたのだ。

郭亮村は、高さ200-300メートルの崖の上にある。背後も山だ。外界に出るには、崖を下らねばならない。使っていたのは不安定なはしごだった。ほぼ垂直に設置されたはしごを下る。そしてまた、そばに設置されている次のはしごを下る。

重い病人が出れば、担架にくくりつけて、はしごをつたってふもとにある病院に運ぶ。子どもが学校に行くのもはしごを使ってだ。村の外から運び込まねばならない荷物は、人がかついではしごを登らねばならない。ちょっとした不注意がもとで転落し、命を失うことを覚悟せねばならない生活だった。

村の共産党委員会の申明信書記は1972年、「下山のための道」を建設する決意をした。「10年計画だ。10年でだめだったら20年をかける。われわれの世代で完成できなかったら、次の世代が引き継ぐ」と、愚公とまるで同じ決心だった。

道路建設の中核となって働く13人を決めた。命がけの作業も多いはずだ。「十三壮士」と名づけた。王懐堂さんはその「十三壮士」の1人だった。王さんは村で、学問のある努力家として一目置かれていた。申書記は王さんにまず、測量作業と道のルート選びを託した。(編集担当:如月隼人)

 

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Posted by 如月隼人