「崖っぷちの村」で希望の暮らしを享受する愚公の子ら(2/6)=河南省・郭亮村

外の世界に出るためには、200-300メートルの崖をはしごづたいに下らねばならなかった河南省の郭亮村は、外界に通じるための道路を作ることになった。危険を伴う工事推進の中核となる「十三壮士」のひとりに、王懐堂さんも選ばれた。
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王さんの仕事はデスクワークではない。現場に出ての作業が続く。必要ならばルートの上方にある岩石を発破で除去することもあった。状況を確認するために、崖の上からロープで吊り下げられることもあった。毎日のように危険な作業が続いた。

王さんには工事に着手する前年の1971年に生まれた女の子がいた。王さんにとって娘はなによりの喜びだった。ところが着工後3年目の1974年、王さんは作業中の転落事故で死亡してしまった。娘の王春蓮さんは、3歳にして父親を失った。

春蓮さんによると、父親の記憶はない。ただ、村人全員が出席した追悼会のことだけは、覚えているという。村で特定個人のために追悼会が行われるのは初めてだった。春蓮さんの母親は翌年、再婚することになった。相手は村の外の人だ。村の人々は、王懐堂さんの子が村を去らないようにしてほしいと懇願した。そこで、村に住む春蓮さんの祖父母が春蓮さんを育てることになった。

春蓮さんは少し大きくなると、村人に「お父さんはどういう人だった? いたずら好きだった? すごい人だった?」と尋ねるようになった。村人は「お父さんは頭のよい人で、力持ちだったよ」、「お父さんは背が高くて、さっぱりした人だったな。君の姿は、お父さんに似ているよ」などと教えた。

春蓮さんの祖父は医者で、80世帯あまりの村の名士だった。だからいろいろな家からしょっちゅう食事に呼ばれた。父が生きていた時代に春蓮さんの家は貧乏で、いつも食べていたのはサツマイモを少し入れた薄いトウモロコシの粥だった。米を食べたことはなく、米とは木になるものと思い込んでいた。ふだんは白い小麦粉も食べられなかった。

祖父と訪れる家では、もてなしのために麺料理なども食べさせてくれた。春蓮さんは子ども心に「お正月のごちそうみたい」と思ったという。

しかし祖父母もほどなく他界した。春蓮さんは伯父に預けられることになった。貧しく厳しい生活が待っていた。中学校も卒業できず、春蓮さんは村の外に出て働くことになった。果物売り、飲食店店員、ビール工場の労働者などさまざまな職に就く一方で、読み書きがきちんとできるよう、自分で勉強した。

一方、郭亮村に通じる道路は、難工事が続いたが作業する人が懸命に努力を続けたこともあり、当初見込みよりも相当に早く1977年5月1日に開通していた。春蓮さんが村の外に出たのも、「いつでも行き来できる」との安心感が影響したかもしれない。(編集担当:如月隼人)

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Posted by 如月隼人