日台の野球殿堂入りした台湾出身の呉昌征氏は、元祖・大谷翔平のような選手だった

台湾国営メディアの中央通訊社によると、戦時中から戦後にかけて巨人や阪神で選手として活躍した呉昌征氏(1916-1987年)が、台湾の野球殿堂入りすることが分かった。呉氏は1995年に日本の野球殿堂入りしており、日台での殿堂入りとなる。現役時代の呉氏は、短期間ではあるが外野手と投手をこなした。いわば「元祖・大谷翔平のような存在だった。
 
呉氏は現在の高雄市生まれ。嘉義農林学校に進み、近藤兵太郎監督の下、春の甲子園に1回、夏には2回出場している。嘉義農林学校の甲子園出場を描いた台湾映画「KANO」では、嘉義農林学校に入学前の少年時代、野球にあこがれ同校野球部の手伝いをする呉氏の姿が描かれている。
 
呉氏は1937年に巨人に入団。俊足・強肩の外野手として活躍した。42年、43年には連続して首位打者になった。
 
43年のシーズン終了後、台湾に戻るため巨人を退団。しかし大阪に立ち寄ったことがきっかけで阪神に入団した。44年には20試合に出場し、19盗塁を記録。同じく嘉義農林学校出身で巨人でプレーしていた呉新亨選手と並んで盗塁王になった。
 
大戦末期の45年にプロ野球が中断され、阪神甲子園のグラウンドが芋畑にされた際に、呉昌征氏は嘉義農林学校で学んだ農業技術を生かし耕作を指導した。
 
プロ野球が再開された46年には、投手不足というチーム事情により、投手としても出場した。投手として初試合の開幕2試合目の対阪急戦では、9回1失点の完投勝利。6月16日には投手として戦後初のノーヒットノーランを達成。投手として同年の成績はチームトップの14勝、防御率はリーグ9位の3.02だった。
 
同年の打者としての成績は、450打席に立ち打率0.291、打点32、本塁打1。呉選手には本塁打よりも俊足を生かした2塁打が比較的多い特徴があった。
 
47年以降は主に野手として活躍。1950年に毎日に移籍し、57年を最後に引退した。上記以外の記録としては、1943年の最多安打、1950年の16試合連続得点、1950年に達成した史上2人目の通算1000試合出場などがある。
 
呉氏は戦後日本に帰化し、日本名を石井昌征とした。日台双方の野球殿堂入りしたのは王貞治ソフトバンク球団会長に次いで2人目。(編集担当:如月隼人)

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