最近の風潮、ちょっと警戒しています

あの地震から、もう1年です。行政や某電力会社(名前を書かないのは、ある意味で皮肉ですね)の対応のまずさやひどさの一方で、被災した人々の行動はすばらしかった。


そりゃ、火事場泥棒的な卑劣な犯罪がなかったとは言わない。「自分だけ何とかなれよい」と考える人も、絶対にいなかったとは言いませんが、とにかく少なかった。


そして、苦しい中、あそこまで互いにいたわり、助け合う精神を示したのは、すばらしかった。やはり、民度の高い国だと思えました。


ただ、近ごろのことですけど、日本や日本人のよさを一方的、あるいは排他的に論じる主張が増えてきていることには、どうも「違うんじゃないのか」と思っています。


日本や日本人のよさを発見、あるいは再発見して論じるのはよい。「このよさを失ってはならない」、「このよさをもっと伸ばそう」という建設的な議論につながる。「日本のここがよい」と主張するのだから、ある程度は他の国との比較になることも、不思議ではない。


ただ、日本のよさを指摘することが、他の国を「コキおろす」ことと直結していることは、どうもいただけない。本当ならば、日本や日本人のよさを指摘する場合には、同時に「自分はその一員として、足を引っ張るようなことはしていないのか」と反省すべきだと思います。


歴史的なこともそうですね。過去の、日本や日本社会がいかにすばらしかったか強調する発表が増えています。


もちろん、そのことはよい。ただ、過去の日本の社会には、問題点も多かった。抑圧や差別、搾取も多かった。そんな問題があったのは日本だけではありませんよ。日本よりひどい地域も、いくらでも見つかる。でも、過去の日本が「この世の天国」だったわけではない。断じて。


樋口清之という方がいらっしゃいました。国学院大学の先生でした。ご専門は考古学で、歴史に関する著作も多い。「梅干しと日本刀」(1974年)という書物で有名になった。日本の伝統文化に対する評価が低かった時代です。そんな中で、梅干しや日本刀、ほかにもさまざまな例を出して、「日本の文化がいかにすばらしかったか」を強調しました。


私が読んだのは、学生のころだった。実におもしろい内容で、それぞれの例について、いちいち「なるほど」と思いながら読みました。ただ、一方で、「この人、文化的な国粋主義者かな」とも思った。


ところが、最近になって安い古本として購入した「うめぼし博士の逆(さかさ)日本史」という本の一節を読んで、樋口先生に対する見方を一転させねばならないことに気づいた。その部分を写します。


――歴史を知る効用というものは、なにも民族の長所をことさらに喧伝(けんでん)するところにはない。それより、長所と同居している短所を熟知し、それが現実生活に、どのような軋轢(あつれき)や桎梏(しっこく)を生むかを直視する勇気を与えることの方が、はるかに重要なのである。――


考えるに、樋口先生は「梅干しと日本刀」を著した時期、日本の伝統文化に対する評価が不当に低いことを憂えて、あえて「絶賛だけ」にとどめたのでしょう。しかし、「日本的なもの」には長所もあるが短所もあると鋭く認識していた。だからこそ、自国の歴史や自国民の伝統的な考え方を脳天気に手放しで称賛することに警鐘を鳴らしたのでしょう。


長所を知りつつ、「同居している短所を熟知」し、問題を「直視する勇気を得る」ことこそ歴史を学ぶ意味と考えた。樋口先生の言葉はまさに「至言である」と考えています。