今年は天安門事件30周年…中国当局は厳戒態勢、失脚した趙紫陽氏の命日に旧宅は出入り禁止

香港メディアの経済日報などは17日、趙紫陽氏の旧宅への出入りが禁止されていると報じた。今年(2019年)は、民主化を要求して天安門広場などを占拠した学生らを中国人民解放軍が武力排除した6月4日の天安門事件(第2次)から30周年に当たる。趙氏は事件発生当時、共産党トップの党中央委員会総書記だったが、学生に理解を示したとして批判され失脚。自宅軟禁のまま、2005年1月17日に死去した。
経済日報などによると、趙氏旧宅の周囲では、警察が例年以上の厳戒態勢を取っている。趙氏の命日を迎え、礼拝に訪れようとしても認められず、家族ですら警察に「登録」してから自宅に入れる状態という。
これまで趙氏の命日に礼拝してきたのは、主に人権保護を訴える活動家だったという。
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◆解説◆
文化大革命終了に伴い復権したトウ小平は、改革開放による経済の復活を最優先課題とした。しかし当時は共産党上層部に保守派も多かった。トウ小平が最も頼みとしたのは、改革開放を支持する胡耀邦と趙紫陽だった。1980年代書記には、「天が落ちてきても胡耀邦と趙紫陽が支えてくれる」と語るほど、トウ小平はふたりを信任していたという。
しかし胡耀邦と趙紫陽には、経済だけでなく政治全般について「極めて開明的」という特徴があった。例えば胡耀邦は1980年にチベットに視察に訪れた際、チベット族に対する扱いの苛酷さに落雷し、現地の共産党幹部に対する演説で、共産党によるチベット政策の失敗を表明して謝罪し、政治犯の釈放やチベット語教育の再開を指示したとされる。
胡耀邦は共産党トップである党総書記(後に中央委員会総書記)に就任したが、1986年に発生した民主化を要求する全国規模の学生デモに理解を示したことで解任され失脚した。共産党中央委員会総書記は、趙紫陽が引き継ぐことになった。
胡耀邦は心筋梗塞のため1989年4月15日に死去。学生らによる胡耀邦追悼デモは速やかに民主化要求の運動に変容した。学生らは北京市中心部の天安門広場を占拠した。学生運動が発生した時点で、トウ小平は北朝鮮を訪問中だった。北京にいた李鵬ら保守派は、学生の動向について誇張した報告を行い、それを信じたトウ小平は人民日報に学生を厳しく批判する社説を掲載させた。
趙紫陽は帰国したトウ小平らに、学生の扱いを転換するよう訴え、論戦になったとされる。趙紫陽は5月上旬になり公の場で「学生たちの理にかなった要求を民主と法律を通じて満たさなければならない」「わが国の法制度の欠陥と民主的監察精度の不備が腐敗をはびこらせてしまった」などと発言した。
趙紫陽はその後も、学生運動を穏健に収束させようとしたが、努力は実らなかった。共産党上層部では趙紫陽に対する批判が高まった。天安門広場では一部学生がハンガーストライキを決行していた。趙紫陽はは19日早朝、天安門広場に足を運び、「われわれは来るのが遅すぎた。申し訳ない」と声を詰まらせながら約8分間、学生たちに絶食をやめるよう呼びかけた。この時には、後に首相になる温家宝も従っていた(本ページ写真参照)。
趙紫陽はその後、「動乱を支持し党を分裂させた」などとして全職務を解任された。(編集担当:如月隼人)