東アジア今日は何の日:6月2日~トウ小平が初めて「黒猫白猫」発言、文革期には攻撃材料に

中国共産党中央が1962年6月2日に行った、「包産到戸(農家の戸別生産請負制度)」についての討論会で、トウ小平副首相(当時)は「黄色い猫でも黒猫でも、ネズミを捕まえる猫がよい猫だ」と発言した。同発言はやや変形されて「黒猫白猫論」と言われるようになった。政策の実効性を重視するトウ小平の発想をよく示す言葉とされる。しかし、「黒猫白猫論」は文化大革命中にはるトウ小平を攻撃する材料の一つにもなった。
(訪中したベトナムの指導者、ホー・チ・ミンと。1965年撮影)
 
1949年10月1日の中華人民共和国の成立には、中国共産党だけでなく他の8の政党が参加した。中国国民党内で蒋介石と対立していたグループも「中国国民党革命委員会」として加わった。当初は共産党以外の8党派の意見も十分に尊重し、大陸部に残っていた資本家も優遇して急速な社会主義化は行わない穏健で着実な国づくりを進めることになっていた。
 
しかし、権力を掌握した毛沢東は1950年代初期から、急進的な社会主義化を断行。共産党が権力掌握時に行った地主から取り上げた土地を小作農などに分配する土地政策も撤回し、1958年からは土地と生産財を共有化する人民公社の設立を急いだ。
 
毛沢東は1958年に、経済力や軍事力で15年以内に英米を追い越すとして「大躍進政策」を実施。同政策により中国全土で数千万人規模の餓死者が発生したとされる。毛沢東は1959年4月に「政策失敗の責任をとる」として国家主席を自任した(共産党主席と中央軍事委員会主席は留任)。
 
毛沢東に次いで国家主席に就任した劉少奇と、副首相に就任したトウ小平は、何よりもまず、農業生産の復活を実現せねばならなかった。そのために提案されたのが「包産到戸」だった。農民に「やる気」を起こさせるため事実上の土地所有を認める方法で、同時に、集団生産で発生しがちな無駄を軽減できることも期待された。
 
しかし「包産到戸」が、国家主席を辞任したとはいえ、党主席や中央軍事委員会の主席には留任し、極めて強い影響力を保持していた毛沢東の思想と真っ向から対立するのは明らかだった。共産党上層部でも、「包産到戸」は社会主義建設に逆行するとの疑念や反発も強かった。しかしトウ小平は、生産の回復こそ最優先として同政策を強く推進した。
 
1962年6月2日の討論会でトウ小平は、「安徽省のことわざ」とした上で「黄色い猫だろうが黒い猫だろうが、ネズミを捕まえる猫がよい猫だ」と説明し、思想面にとらわれず、最も実効性ある方法を採用すべきと主張した。
 
トウ小平は、約1カ月後の1962年7月7日には「いかにして農業生産を復活させるか」と題する文章を発表した。同文章では発言の内容が少しことなり、「劉伯承同志(1892-1986)はいつも、四川の話をしている。黄色い猫だろうが黒い猫だろうが、ネズミを捕まえさせすれば猫がよい猫だということだ」と書かれている(劉伯承:1892-1986)。
 
トウ小平は続けて「これは、戦いについてだ。われわれは、こうしたから蒋介石を破った。つまり、従来通りの規則は無視し、従来の道筋からは襲撃せず、一切は状況を見て決めた。勝つことこそが意味があるのだ」と論じ、現状の問題である農業生産についても「固定で不変の方法を完全に採用することはできない。大衆の積極性を引き出せるかどうかを見極めて、方法を決めるべきだ」と主張した。
 
しかし1966年に始まった文化大革命では「黒猫白猫論」が資本主義を肯定するものだとして、トウ小平を攻撃する「十大罪状」の一つとされた。しかし文革終了後には「黒猫白猫論」が改めて、共産党が理念とする「実事求是(事実の実証にもとづき真理を追究)」や「実践こそが真理を検証する唯一の基準」などの一つの表現形式として評価されることになった。
 
なお、トウ小平は人を説得するための短いフレーズの名手として知られている。改革開放について賛否両論が出た際の「論争をするな。その時間を仕事に使え」、高齢になり特に仕事はないのに地位にこだわる幹部についての「クソをしないのに便所を独り占めされたのでは困る」といった発言なども知られている。(編集担当:如月隼人)