東アジア今日は何の日:6月4日~天安門事件が発生、30年経過するも謎多く

1989年6月4日未明、北京市中央部の天安門広場に集結し民主化を要求していた学生らに対して、中国人民解放軍が武力排除を実施した。同事件については、民主化運動が急速に大規模化した理由や、中国共産党が軍事力を導入する決断をした経緯、死傷者数、その後の人事など、30年が経過したが多くの謎が残されている
 
♦♦学生の自主的な運動ではなく、共産党中枢部の対立が反映との情報
学生らの運動の直接のきっかけは、開明的な指導者として知られていた共産党の胡耀邦元総書記が4月15日に死去したことだった。北京市内の大学構内では時を置かずして、胡元総書記に対する追悼文などが掲示された。さらに数日後には、民主化を求めるデモ行進や天安門広場の占拠が始まった。
 
当時、北京市内で取材をしていた中日新聞(東京新聞)の清水美和氏(後に中日新聞論説主幹、2012年に死去)は筆者に対して、学生運動が始まった直後に「ただごとでは終わらない」ことを理解していたと述べた。学生の運動は完全に自主的なものではなく、共産党上層部の対立に結びついているとの情報を得たためという。清水氏は生前、胡耀邦氏の死の直後に、運動の長期化と大規模化を報じたメディアは東京新聞とBBCだけだったとして、自分の取材生活の自慢の一つにしていた。
 
♦♦「学生がハンスト」と知った市民、熱烈支持を開始
中国では1986年から87年にかけても学生らによる広範な民主化要求デモが発生していた。そのため、北京市民も当初は、学生らの運動を特別に応援していたわけではなかった。しかし、5月になり天安門広場で学生がハンストを始めたとの情報が伝わると、多くの北京市民が熱烈に学生を支持しはじめた。
 
北京市は5月にもなれば、猛烈に暑くなることも珍しくない。デモ行進をする学生に対して、自宅からホースを引いて水道水を供給したり、売り物のアイスキャンデーなどを配る市民もいた。
 
学生らが天安門広場を占拠していた時期は、予定されていたソ連のゴルバチョフ書記長の訪中スケジュールとも重なっていた。同訪問は、1960年ごろから厳しく対立してきた中ソ関係の正常化を確認する外交上の重要な意味があった
 
♦♦ゴルバチョフ訪中に悪影響と、学生批判野声も
ゴルバチョフ書記長は予定通り5月15日に訪中したが、予定されていた天安門広場での歓迎式典は中止され、空港での式典実施となった。その他、ゴルバチョフ書記長に関連する公式行事の多くが中止になったり開催場所が変更になった(帰国は5月17日)。
北京市民の間からは、中国のメンツをつぶしたとして、学生らの運動を「やりすぎ」と批判する声も出始めた。
 
中国共産党/政府は5月19日に戒厳令を布告した。天安門広場を占拠していた学生も、運動が長期化して疲労し始めており、その直前には上層部で運動を継続するか撤退するかの投票を行う予定だったとの説もある。同説によれば、「撤退派」は共産党上層部を震撼させたことで、運動の目的はとりあえず果たせたとの考えだったという。
 
しかし、戒厳が発令されたことで学生らは態度を硬化。天安門広場の占拠を継続することになった。共産党上層部が「学生をこのまま解散させたのでは、後のためによくない」と考え、敢えて戒厳を発令したとの見方もある。同見方によれば、共産党上層部はその時点で、武力投入を念頭に置いていたと考えられる。
 
♦♦解放軍が広場に突入、民衆側にも残虐行為
6月になったころには、解放軍部隊は北京の周辺に集結しはじめていたとされる。6月3日には天安門広場周辺で武装した兵士が集結し、4日未明に天安門広場に突入した。周辺の道路などでは学生や学生を支持する民衆と軍部隊が激しく衝突した。
 
民衆側から激しい攻撃を受けて大きな被害を出したが、発砲しなかった部隊もあったとされる。民衆側にも逃げ遅れた兵士を虐殺して、死体を歩道橋から吊るすなどの残虐行為があった。当局側は後に、吊るされた兵士の写真を、同事件が「反革命暴乱」だった証拠ことして宣伝のために使った。
 
学生・民衆側の犠牲については、さまざまな情報が錯綜しており、謎に満ちている。筆者は6月6日に天安門広場に続く長安街で、工事現場を囲う金属の板や街路樹に、機銃掃射の痕跡があることを確認した。ただし、警告や威嚇のための発砲だったのか、人に向けて撃ったものかは確認できなかった。
 
多くの人が興奮・混乱しており、軍の武力行使についての過大なデマも多かった。筆者自身は「学生の運動に参加していた米国人が、解放軍兵士に負われて公衆便所に逃げ込んだが全身に弾丸を撃ち込まれて死亡した」との噂を聞いたが、後に全くのデマとしか思えないことが分かった。
 
なお、筆者の知人の米国人女性は「中国の民主化を支持する」と言い、連日のように天安門広場に足を運んでいたが、6月3日夜に天安門広場にいたところ、正体の分からない複数の男性に取り囲まれて連行された。彼女によると、天安門広場に面する人民大会堂の地下室に、その他の外国人とともに閉じ込められたという。最初の半日ほどは食事も与えられなかったが、6月6日夜には開放された。撮影済みのビデオテープは押収されたという。当局は、外国人の被害を食い止めようと動いていたと理解できる。
 
♦♦長老説得に成功したことが江沢民大出世の糸口か
学生らの民主化運動が始まった際に、共産党の長老の一人だった万里は外遊中であり、訪問先のカナダで民主化運動を支持する発言をした。学生らの間では帰国後の万里に期待する声が高まった。
 
万里は予定を切り上げて帰国したが、北京ではなく上海で入国。その後27日には、それまでと一転して党中央を支持すると表明した。当時、共産党上海市
委員会書記だった江沢民が党中央の意向を受け説得したとされる。
 
それまで党中央に基盤を持たず、次期指導者になるとはだれも予想していなかった江沢民が共産党総書記、国家主席にまで上りつめたのは、トウ小平らが万里説得を高く評価したからとの見方がある。(編集担当:如月隼人)

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