東アジア今日は何の日:6月5日~ドルゴンの北京入城

1644年、清朝皇帝・順治帝の摂政だったドルゴン(睿親王)が北京城入りした。清はその後、中国全土で勢力を拡大し、1670年代ごろまでに中国制覇を完了した。
 
清朝の初代皇帝とされるヌルハチ(太祖)は、ジェシェン(女直)民族の統一を進めると同時に、満洲地域に進出していた明の軍団と全面対決した。ヌルハチは満洲全域をほぼ手中に収めたが、明の最終防衛ラインだった長城を突破しようとしたが失敗。受けた傷が元で死去した。
 
ヌルハチの死で清は混乱したが、2世皇帝のホンタイジ(太宗)が収拾した。ホンタイジはモンゴルの有力部族だったチャハル部に勝利し、チャハル部の支配者だったリンダン・ハーンの遺児から元朝以来伝わるというハーン(モンゴル皇帝)の玉璽を譲り受けた。このことで、清朝皇帝はモンゴル皇帝の地位を得たことになり、モンゴル勢力の主要部分を自らの支配下に置くことになった。
 
ホンタイジは、陣営に加わっていた満州族・漢族・モンゴル族の3族から推戴を受けるという形で皇帝に就任。国号を「大清国」とした。さらに女直(女真)という民族名を「マンジ(満洲)」に変更した。さらに、朝鮮に明の冊封関係を絶たせることに成功し、清の冊封国とした。
 
ホンタイジも長城を越えようした。重要な勝利を重ねたが、1643年に51歳で急死した。脳出血だったとの説がある。
 
明朝を滅ぼしたのは、農民反乱軍の指導者だった李自成だった。李自成軍が北京を包囲すると、明朝最後の皇帝だった崇禎帝は自死した。その時点で山海関を守っていた明の将軍は呉三桂だった。呉三桂はホンタイジとも何度も戦火を交えていた。ホンタイジは最晩年に、兵をいったん休めるとして対明戦争をいったん緩めたが、呉三桂の固い防御を考慮したからとも言える。
 
一方、呉三桂は清朝と李自成という2方面の強敵と対峙することになり苦境に陥った。呉三桂は清と手を握ることを決意(北京に残していた情婦を李自成に取られた恨みが原因だったとの説が古くからある)。山海関を開き、清軍を通過させた。清軍を率いていたドルゴンは一気に南下し、李自成軍を撃破した。李自成は抵抗戦を試みながら逃走したが、湖北省で農民の自警団に殺害されたとされる。
 
北京に入城したドルゴンは、皇帝ではなかったが摂政という政策推進の責任者だった。ドルゴンは自死した明の崇禎帝を厚く弔い、明朝以来の官僚組織を温存するなど、漢族に対する恩恵策を推進すると同時に、満洲族の風習だった辮髪を漢族に対して「髪を留める物は首を留めず」と強要するなど、「アメとムチ」を両用する清朝の中国統治方式の基礎を築いた。
 
なお、呉三桂は清朝の中国制覇に功績が大きかった漢人武人である尚可喜耿仲明とともに優遇されて、その領地は独立王国と同様になった。ただし、全土の直接支配を狙う4代皇帝の康熙帝に圧迫され反乱を起こし(三藩の乱)、敗北した。(編集担当:如月隼人)

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