東アジア今日は何の日:6月10日~劉備玄徳、白帝城にて死す

西暦223年月10日、三国志演義でも有名な蜀漢の先主、劉備玄徳が白帝城(現:重慶市奉節県)で死去した。
紀元前206年に成立した統一王朝の漢(前漢)は重臣だった王莽の簒奪により、紀元8年に滅びた。王莽は「儒教原理主義」とでも呼べる政策を断行したが、あまりにも現実離れした政治に全国で農民反乱が多発。最終的に前漢の傍流皇族を称する劉秀(洪武帝)が再び全国を統一した(後漢)。
 
後漢は当初から門閥貴族(世襲制豪族)の連合政権という性格が強かった。門閥貴族の実態については議論が分かれているが、所有する領地を権力の基盤とし、特に有力者の場合、中央政権でも大きな力を持つようになったと考えてよいだろう。後漢の解体は、有力門閥貴族の実力が高まり皇帝政権との両立が困難になったことが、大きな背景といってよい。
 
いわゆる三国時代、劉備は紆余曲折を経た後に、中国北部全般を支配した曹操、南東部を支配した孫権に次ぐ、中国第3の実力者になった。正史である三国志の記述などからも、親分肌で周囲の者を強く魅了する人物であったことがうかがわれる。
 
最終的に拠点としたのは、現在の四川省を中心とする蜀の地だった。劉備は、捏造である疑いが極めて濃いものの、同姓の漢皇室の子孫と称して正統性を強調し、国号を「漢」とした。ただし、支配地域は限定的だったので、国名は地名による「蜀」または「蜀漢」と呼ばれることが多い。
 
魏・呉・蜀の3国が激しく争った関係もあり、出身門閥にかかわらず有能な人材を登用する風潮が高まった。劉備が諸葛亮孔明を「三顧の礼」で招いたのも典型的な例と言えるが、諸葛亮はどちらかと言えば門閥を主体とする体制づくりを理想としていたとの見方がある。
 
つまり諸葛亮は「旧守派」だったことになる。時代は下って、6世紀末に中国を統一した隋は、科挙制度を採用した。同制度の理念は、家柄に関係なく優秀な人材を登用することだった。つまり、門閥制度は最終的に放棄されたことになる。
 
しかし、「血筋とは無関係な人材登用」を理念とした科挙制度により、皇帝と「皇帝以外」の距離が極端に開いたことや、科挙が実務能力に重きを置かず、儒教古典などの「暗唱能力」に極端に偏向していたことから、中国の統治方式は次第に「いびつ」なものになっていった。
 
その後の元朝は、モンゴル門閥貴族の立場と実務能力による人材登用を重視したが、中国統治を短期間で放棄して北方に撤退した。同じく異民族による統治だった清朝は、結局はすでに伝統になっていた科挙制度を踏襲した(モンゴル地域などは除く)。
 
劉備玄徳は、「漢の皇室の一員」を称するだけに、配下の諸葛亮を含めて宮廷は懐古趣味の色彩が強かった。現実を無視して時代の流れに逆らったともいえるが、皇帝だけが「至高」になっていった中国の異常な歩みを考えると、歴史的評価を下すのは難しい。
 
劉備の旗揚げ時からの盟友だった張飛は、恨みを抱いていた部下の張達と范彊に、陣中で殺された。張達と范彊は呉に亡命。呉が二人をかくまったため、劉備は自ら報復戦に出陣。しかし、戦いに敗北して白帝城にこもった。呉との和睦は成立したが、劉は病を得て死去した。(編集担当:如月隼人)

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