東アジア今日は何の日:6月12日~唐王朝が成立、隋・恭帝からの禅定受けて

西暦618年6月12日、隋・恭帝(楊侑)は李淵に帝位を譲った(譲位)。これにより隋は滅び、唐王朝が新たな中国の支配者になった。
 
隋の楊堅(隋・文帝)は589年、南朝の梁を滅ぼした。西晋が滅亡して南北に王朝が並立する南北朝時代が始まって以来、約300年ぶりの中国の統一だった。しかし、2世皇帝の楊広(煬帝)は中国の南北を結ぶ大運河の建設や朝鮮出征を繰り返したなどで苛酷な負担に耐えかねた民衆が各地で反乱を起こした。また、隋の衰退を見た突厥も進入を繰り返した。
 
煬帝は長安の都(大興城)から撤退し江南に逃れた。独立勢力として成長した李淵は617年に長安を占拠。長安に残っていた煬帝の孫の楊侑を皇帝とした(恭帝)。楊侑は傀儡(かいらい)であり、実権は全くなかった。605年の生まれだったので、即位当時は12歳程度だったとされる。
 
江南に逃れた煬帝は、最初は反乱の鎮圧に努めたが、次第に酒と宴会に溺れるようになった。しかも、諫言する臣下を殺すなどするようになった。煬帝に従った隋軍の多くは北部出身者であり、帰還の見込みが亡くなったとして反乱を起こし、煬帝を殺した(618年)。
 
煬帝の死を知った李淵は、楊侑から帝位を譲られる形で皇帝に即位し、唐を建国した。楊侑は619年に殺害された。14歳あるは15歳だったとされる。
 
楊侑は李淵の次男だった李世民(後の唐・太宗)が李淵の許可を得て殺害したとされる。当時はまだ唐朝に服さない勢力も多く、形式上とはいえ皇帝だった楊侑が敵対勢力に利用された場合は深刻な事態になりかねないと判断しての、政治上の非情な措置だったと考えられる。
 
隋朝を樹立した楊家も、唐朝の李家も、出身は北魏から北周の北方防衛を担った武川鎮軍閥の出身。北魏も北周の漢人ではなく鮮卑系の中国北部王朝だった。そのため、楊家・李家ともに鮮卑系だった可能性が強いとされる。鮮卑はモンゴル系の遊牧騎馬民族だったとされる。
 
楊家や李家が拠点とした武川鎮は現在の内モンゴル自治区フフホト市の郊外(現・フフホト市武川県)。その意味で隋と唐は中国の統一王朝の中でも「内モンゴル出身」と言うことができる。なお、モンゴル人が樹立した元朝の祖とされるチンギス・ハンの出身地は現在の中国領内ではなく、モンゴル国北東部のヘンテイ県とされる。(編集担当:如月隼人)