東アジア今日は何の日:6月13日~中ロが天津条約を締結、その後の不平等条約のパターンを決定

中国(清国)とロシアは1858年6月13日、1856年に勃発したアロー戦争の講和条約を天津で結んだ(中ロ天津条約)。清国は同じく天津で同月18日には米国と、26日には英国、27日にはフランスとも条約を結んだ。いずれの条約の外国側の広範囲の特権を定めており、中国がその後に諸外国と結んだ不平等条約の土台になった。なお、中国側の批准拒否や背信行為により、アロー戦争は1860年まで続いた。
 
アロー戦争の直接のきっかけは、清国官憲が1956年10月8日に英国国旗を掲げていたアロー号を臨検し、清国人船員の一部を「海賊」として身柄を拘束したことだった。当時の英国のハリー・パークス広州領事は清国に厳しく抗議。清国側官憲がアロー号の英国国旗を引きずりおろしたことも、英国に対する侮辱として厳しく非難した(清国側は、英国国旗は最初から掲げられていなかったと反論)。
 
実際にはアロー号の英国船籍登録は事件の数日前に終了しており、英国側に同件を抗議する根拠はなかった。しかしパークスが船籍登録の期限切れを知らず、清国側も事実関係の調査を行わなかったとされる。
 
なお、ハリー・パークスは後に日本に赴任し、幕末から明治初期にかけての英国の対日外交で重要な役割りを果たす。外交官として本国の国益確保を最優先したのは当然だが、日本に好意を示す言動も多かった。日本での在職期間は18年で、英国の歴代駐日本公使・大使の中では最長。
 
英国側はアロー号件を受けて軍事行動を決定。同件が戦争に発展した背景には、清国内で外国人排斥感情が高まっており、襲撃事件も発生したことで欧米列強が不満を高めていたことがある。フランスも、同年2月に自国宣教師が広西省(現・広西チワン族自治区)で官憲に捕らえられ斬首刑に処せられたことを理由に参戦した。
 
英仏は、それまでの条約の改正も主張。米国とロシアは戦争には加わらないが、条約改正には参加すると表明した。
 
英仏連合軍は1857年には広州を占領。清国側に条約改正を求めたが応じないため、天津に上陸し占領した。英仏連合軍が首都である北京に迫る勢いであったため、清朝側は条約改正に応じ、露・米・英・仏の順で新条約を結んだ。
 
条約内容としては、英仏に賠償金を支払ったほか、外交官の北京駐在、中国での旅行と貿易の自由と治外法権、外国艦船の徴候通行の権利保障、10港の開港などがあった。
 
条約の締結を受け、英仏連合軍はいったん引き上げた。しかし清朝上層部では同条約に対する不満が高まり、批准を拒否することにした。条約批准のために英仏艦隊が再び天津を訪れたところ、清国側の攻撃を受けた。
 
英仏艦隊は撤退したが、1860年夏には改めて大軍で進撃。天津の砲台を占拠するなどした。清国側は英仏側が派遣した交渉団を捕らえ、うち11人を拷問した上で殺害した。なお、パークスも同交渉団に参加しており、1カ月前後投獄された。
 
英仏連合軍は本格な進軍を開始し、北京を占領。捕虜殺害に対する報復として北京北西部にある円明園を焼き払った。
 
清国と英仏は60年10月にロシアの調停で北京条約を結び講和した。同条約には天津条約の内容に加え、清国による自国民の海外移住禁止撤廃や香港島の対岸である九龍半島南部の割譲などが含まれていた。英仏側が清国国民の海外移住を望んだのは、安価な労働力として利用するためであり、同条約により大量の華僑が発生することになった。また、仲介役となったロシアは満洲地域への進出を加速したことが、日露戦争の遠因になった。(編集担当:如月隼人)