東アジア今日は何の日:6月14日~「海防の街」として青島市の建設が始まる(1891年)

清朝政府は1891年6月14日、山東半島の北東端近くにある登州(現、山東省煙台市)の駐屯兵団の指揮官だった章高元に同半島南部の胶澳に兵を率いて移動して駐屯するように命じた。胶澳はその後、山東省でも極めて重要な港湾都市である青島市に発展した。
 
章高元は1843年の生まれで、太平天国の乱(1851~1864年)の際に淮軍に加わった。10歳前後で軍隊生活を始めたことになる。淮軍とは、反乱鎮圧に正規軍が役立たかったために、宮廷の命令を受けて組織された地方防衛軍の一つ。指導者は李鴻章。淮軍は後に洋式軍隊組織に改編され北洋軍となり、日清戦争では日本軍と戦うことになる。
 
1874年に日本が台湾出兵を行った際、章高元は兵を率いて台湾に渡っている。しかし、日本軍との直接の交戦はなかったとみられる。日本が台湾出兵を行ったのは、台湾に漂着した宮古島島民54人が台湾原住民に殺害されるなどの事件があり、清朝政府が台湾原住民について「管轄外」と回答したからだった。
 
章高元は1884年にフランス軍が台湾に上陸した際にも出兵し、激烈な戦闘を展開して敵を撃退。その後は台湾を守備していたが、1887年には登州の駐屯隊の指揮官に転任した。胶澳(青島)に守備隊約2000人を率いて赴いてからは、役所、兵営、火薬庫、砲台、桟橋、電報局、大通りを建設して、青島にとって最初の都市インフラを建設した。
 
1894年に日清戦争が勃発した際に部隊を率いて戦場だった遼寧に急行したが、日本軍に大敗。終戦後は胶澳に戻った。1897年にはドイツ人神父殺害を理由にドイツが山東省を攻撃した際には、朝廷から交戦禁止の命令を受けていたことと、兵力の絶対的不足のために、胶澳から全部隊を撤退させた。
 
章高元は命令により手持ち部隊を率いて煙台の防衛に当たったが、1898年2月に解任された。戦争の結果、青島を含む膠州湾一体はドイツ租借地となった。その時点で胶澳は商店が60店舗ほど並ぶ、規模は小さいがにぎやかな街になっていたという。なお、胶澳には青島という呼称も古くからあったという。
 
ドイツは青島を、モデル植民地として開発した。洋風の街並みや「青島ビール」などの「青島名物」はドイツ統治下で出現した。(編集担当:如月隼人)

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