東アジア今日は何の日:6月20日~嵯峨浩が死去…愛新覚羅溥傑と結婚・流転の王妃(1987)

侯爵・嵯峨家の長女で満洲国皇帝・愛新覚羅溥儀の弟である愛新覚羅溥傑と結婚した嵯峨浩が1987年6月20日、北京市内で死去した。73歳だった。関東軍の後押しによるいわゆる政略結婚だったが、円満な夫婦となった。しかし、日本の敗戦と満洲国の崩壊による離別。長女の自殺。北京に渡って夫と再開したものの、文化大革命による迫害など、波乱の人生だった。「流転の王妃」などと呼ばれる。
 
浩の夫となる愛新覚羅溥傑は1929年に来日し、学習院高等科に留学。卒業後の33年には陸軍士官学校本科入学、35年には見習士官に任官した。
 
関東軍は溥傑を日本人女性と結婚させよう動いていた。最終的に昭和天皇とは父親同士が母系のまたいとこで、侯爵家長女であり、しかも結婚適齢期で溥傑と年齢がつりあうということで、浩が選ばれた。
 
結婚式は1937年4月に東京の軍人会館で行わた。その後、二人は満洲国首都の新京(現・吉林省長春市)に渡った。38年には長女の慧生が40年には次女の嫮生が生まれた。夫婦仲はよかったという。
 
45年にソ連が満洲に侵入した際、学習院初等科に在学していた慧生を除く一家3人は新京にいた。朝鮮との国境近くの大栗子まで到達したが、溥傑はそこから日本に亡命する溥儀と飛行機に同乗し、浩と嫮生は陸路、朝鮮に向かうことになった。
 
しかし、溥儀や溥傑が乗った飛行機はソ連に向かい、ソ連軍に拘束されることになった。浩と嫮生は68年1月、八路軍(中国共産党軍)に捕らえられた。各地を転々と移送され7月にはジャムス(現・黒龍江省内)で釈放された。9月には日本への引き上げ船が出ていた葫蘆島(現・遼寧省内)に着いたが、今度は国民党に拘束され、上海に連れていかれた。日本への帰国が実現したのは1947年1月だった。
 
溥傑は溥儀とともに撫順の労働改造所(労働を通して思想を改造させる施設)に収容された。当初は連絡が取れなかったが、長女の慧生が書いた「父と会いたい」と訴える手紙に周恩来が心を動かされ、溥傑との文通が認められた。
 
1957年には学習院大学に在学中の慧生が、交際中の同級生と自殺した。家族に交際と結婚を認められなかったからとされている。同級生らによると、相手の男性は何事にも思いつめる性格で、自殺願望を持っていたという。慧生は、自殺を思いとどまるように交際相手を説得しているなどと、同級生に悩みを打ちあけている。自殺の現場は伊豆の天城山中で、二人を最後に乗せたタクシーの運転手は、慧生がしきりに「今ならまだ間に合うから、帰りましょう」などと引き留めていたと証言したという。二人の遺体が発見されたきっかけは、「心中でもする気なのでは」とタクシー運転手が警察に通報したからだった。
 
溥傑が1960年に釈放されると、浩は北京に渡り、一緒に住むようになった。しかし、1966年に文化大革命が派生すると、自宅が紅衛兵に襲撃されるなど迫害された。文化大革命が下火になった1974年以降、浩は5度に渡り日本に里帰りしている。1987年に北京市内で死去。
 
溥傑が死去したのは1944年。溥傑、浩、慧生の遺骨は、それぞれ半分が山口県内の摂社愛新覚羅社に納骨され、残りは北京市郊外の妙峰山上空から散骨された。
 
嫮生は1968年(昭和43年)、浩の妹である泰子の嫁ぎ先であり、嵯峨家と親交の深い福永家の次男と結婚し、5人の子を生んだ。美智子上皇など皇室とも交流があり、2019年になっても時おり、メディアに紹介されている。

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