東アジア今日は何の日:6月21日~義和団の乱、清朝が欧米列強に宣戦布告(1900年)

 
清朝末期に中国に進出した欧米日列強への排撃運動を進める義和団(写真)が北京に突入したことを受け、清朝は1900年6月21日、列強各国に対して宣戦を布告した。後に列強軍が義和団に勝利すると、清朝は一転して義和団を「反乱軍」と認定。清朝の「ご都合主義」の姿勢は、多くの中国人の清朝不信にもつながった。
 
アロー号戦争(1859~1860年)の講和条約として結ばれた天津条約で、清朝は列強諸国のキリスト教伝道師による自国内での布教を認めた。
 
多くの外国人宣教師が活動を始めた。宣教師らはキリスト教精神に合致し、布教を推進するために有効だった貧民救済に熱心だった。貧困な村落住人の全員が、キリスト教に改宗する事例も多かったという。宣教師らは一方で、中国を見下し現地の慣習を無視することも多く、官憲などとの衝突も多く発生した。
 
列強は中国で治外法権などの特権を認められていた。キリスト教に改宗した中国人も特権を認められるようになったので、キリスト教布教への反発は、信者である中国人にも向けられた。各地で外国人キリスト教宣教師や中国人信者への襲撃や虐殺が多発するようになった。
 
山東省では、宗教的秘密結社「義和拳教」による排撃運動が激化した(義和団)。列強の抗議を受け清朝による山東省での弾圧が激しくなると、義和団は拠点を現在の河北省に移した。このため、北京にいた列強の公使など外交代表団と港町の天津の連絡が遮断された。
 
1900年6月10日には義和団団員約20万人が北京に入城。日本公使館の杉山彬書記官やドイツ公使クレメンス・フォン・ケーテラー公使が殺害されるなどの事態も発生。清朝は1900年6月21日、列強に対して宣戦を布告した。
 
清朝が軍事力で列強に対抗できないことは明らかだった。宣戦布告の理由は明らかでないが、宮廷内部には列強に対する感情的反発も強く、さらに列強に対する「妥協派」と「強硬派」の争いや、事実上の支配者だった西太后自らの地位保全についての思惑などの複雑な要因が指摘されている。
 
北京市内の外国公館は、天津からの援軍を待ち「籠城」せざるをえなかった。籠城したのは外国人925人と中国人キリスト教徒約3000人だった。籠城側は危機的状況だった。日本人武官の柴五郎は各国公館の意思をまとめ、籠城戦の事実上の総指揮官になるなどで援軍の到来で解放されるまで持ちこたえるために大きな功績があった。後になり、多くの欧米人が柴を称賛している。また、中国人キリスト教徒も籠城戦に積極的に参加した。籠城戦により外国人にも中国人にも犠牲者が出た。
 
公使館が北京市内の東交民巷という地区にまとまっていたことも、籠城には有利に働いた。また、北京市内のキリスト教会の「北堂」にも欧米人と中国人信者の計約3000人が立てこもり、最後まで持ちこたえた。
天津で列強8カ国の連合軍が組織され、北京に向け進軍を始めた。清国側は正規軍の八旗軍や「準正規軍」の北洋軍など総勢4万人ほどの軍で対抗したが、敗北を重ねたことで逃亡兵も多く、連合軍が北京に到達した際には、戦力が大幅に低下していたという。
 
西太后は北京が陥落する前に脱出し、西安まで逃げた。また、光緒帝も同行させた。「皇帝を手元に置いていないと、失脚させられる恐れがある」との考えだったとされる。
 
北京を占拠されてから清朝は姿勢を180度変えた。8月20日には列強に対して謝罪し、義和団を「匪賊」つまり「反乱者」と認定した。義和団はそれまで、「扶清滅洋(清を支え外国を滅ぼす)」などをスローガンとしていたが、「掃清滅洋(清を一掃し外国を滅ぼす)」に切り替えた。
 
清朝は北方の満洲族(マンジ)による王朝で、中国の主流民族の漢人にとっては異民族支配だった。そのため、清朝期に見られた抵抗運動は「滅満興漢(満人を滅ぼし漢人を興せ)」などをスローガンとした。義和団が掲げた「扶清滅洋」は、列強諸国の脅威に直接触れたことで、清国による支配を「自国の統治システム」と認めたことを意味する。
 
しかし、その後の辛亥革命では改めて、「駆除韃虜(韃虜を駆逐せよ)」などがスローガンとされた。「韃虜」とは「韃靼」の蔑称。「韃靼」明朝時代にモンゴル人を指す言葉とされたが、辛亥革命時には「マンジ」を指す言葉として用いられた。
 
一連の経緯を見ると、「義和団に対する裏切り」がきっかけで、中国では清朝に対しての「外来の支配者」との見方が、改めて定着し強まったと理解することができる。
 
清が1901年5月末に列強各国への賠償金支払いを受諾したことで、連合軍は同年7月31日に北京からの撤退を始め、軍事外交問題としての「義和団の乱」は終息に向かうことになった。(編集担当:如月隼人)

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