東アジア今日は何の日:6月23日~台湾を拠点に明朝復興めざした鄭成功が死去(1662年)

台湾を拠点として明朝の復興を目指した鄭成功が1662年6月23日(旧暦5月8日)、熱病により死去した。37歳だった。
 
鄭成功は1624年6月、貿易商・海賊などとして活動した鄭芝龍を父、日本人の田川マツを母として、日本の平戸(現・長崎県平戸市)で生まれた。
 
当時は貿易商と海賊の境界が明確ではなく、平和な取引で利益を出せる場合には貿易商、競合相手に対して、あるいは話し合いが決裂した際に海賊行為を働く例は珍しくなかった。また、官憲に抵抗して沿岸部都市などを襲撃することもあった。
 
鄭成功の父の鄭芝龍は福建省に生まれ、18歳の時に父親が死去したので母方の親族を頼りマカオに行った。この時にカトリックの洗礼を受けた。後に中国人商人の傘下に入り、頭角を現す。一時は平戸(現:長崎県平戸市)に拠点を置き、平戸藩士田川七左左衛門の娘のマツと結婚した。
 
鄭芝龍は活動拠点を台湾に移したが、台湾南部にオランダ人の入植がはじまると、妻子と共に福建省に移った。そのころまでに、グループのリーダーが死去したので、鄭芝龍自身がリーダーになったとされる。鄭芝龍は台湾から退いたがオランダとの交易を行うことで、莫大な富を得たとされる。鄭芝龍のグループは福建一帯で最も強い勢力を持つ武装商団に成長した。
 
鄭芝龍はまた、「遊撃」という軍人としての役職を明朝から得て、他の武装商団グループを「海賊」として「討伐」した。1644年に明朝が滅びて清朝が成立すると、鄭芝龍は明朝亡命政権(南明)から清朝討伐の命を受けた。しかし南明の内部抗争に嫌気がさして、鄭芝龍は清朝側についた。
 
しかし息子の鄭成功は南明側にとどまり、明朝の復興を目指して対清戦を続行した(反清復明)。まず、厦門を制圧。さらに1658年には北伐を開始したが暴風で多くの船を喪失した。鄭成功は兵力を立てなおし、改めて南京を目指した。破竹の勢いで進軍したが、清が派遣した大量の援軍に各部隊を寸断されるなどで大敗。そのため、厦門に撤退。さらに厦門の確保も困難と判断し、台湾を占拠して拠点にしようと考えた。
 
なお、鄭芝龍は清朝側から、息子の成功に投降するよう説得するよう命じられたが、成功は応じなかった。そのため鄭芝龍も帰順の本心を疑われ、北京に送られて処刑された(1661年)。
 
当時の台湾はオランダ東インド会社が統治していた。鄭成功は1661年にまず、台湾本島と大陸の間にある澎湖諸島を占領。同年3月30日からは現在の台南市にあったオランダのゼーランディア城を包囲攻撃。オランダ側は1662年2月21日に降伏して退去した。
 
鄭成功は当時の台湾の要所を次々に選挙し、台湾の支配体制を確立した。しかし熱病にかかり、同年6月23日に死去した。
 
鄭成功が台湾を拠点として活動した時期は短かったが、台湾からオランダ人を一掃して漢人による独自政権を樹立したことで、その後の台湾の歴史を決定したとして、大いに崇拝されることになった。
 
鄭成功の死後、一族内で後継ぎ争いが生じたが、結果としては長男の鄭経が後継者になった。鄭経の死後は鄭経の次男である鄭克塽が後を継いだ。しかし鄭克塽は1683年に清軍に降伏した。台湾を拠点にした鄭氏一族の帰順をもって、漢人居住地における清への本格的抵抗は終結した。
 
鄭成功の奮闘は日本にも伝わった。「滅びゆく主君に最後まで忠誠を尽くした」として、日本人の琴線に触れたと考えられる。近松門左衛門は鄭成功を題材に、人形浄瑠璃作品の「国性爺合戦」を1715年に発表した(後に歌舞伎化)。同作品は初演から17カ月連続公演の大ヒットとなった。
 
題名中にある「国性爺」は、鄭成功が明朝への忠義と貢献を認められ、明朝皇室の姓(国姓)である「朱」姓を称することを許されたことで「国姓爺」と呼ばれたことによる。
 
「国姓爺」でなく「国性爺」とした理由は不明だが、当時は実際にあった政治的事件を題材にした文芸作品が、「ご政道に意見した」との理由で取り締まりの対象になることを恐れ、固有名詞を変更することが普通だった。「国性爺合戦」でも、鄭成功は「和藤内」の名で登場する。
 
「和藤内」とは「和(=日本)」でも「藤(=唐、中国)」でも「ない」との意。日本では当時も、鄭成功の母が日本人だったことが知られていたことが分かる。
 
なお、「国性爺合戦」は史実を大幅に変更している。例えば、鄭芝龍は刑死せず、兵を率いて南京を攻める。和藤内(鄭成功)も父に続いて南京を攻め、清を倒して明の皇子を即位さて明を復興させる結末だ。(編集担当:如月隼人)

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