東アジア今日は何の日:6月25日~敦煌・莫高窟文書が発見される(1900年)

 
1900年6月25日、敦煌・莫高窟に住み着いていた道士の王円籙(1851-1931年、写真)が、洞内に知られていなかった部屋のあることに気づいた。内部を確認したところ大量の文献が見つかった。同文献は莫高窟文書や敦煌文献などと呼ばれるようになった。
 
王円籙は湖北省の出身で、食べられなくなったために故郷を離れて各地を放浪した。光緒年間(1875-1908年)初期には現在の甘粛省で兵になった。その後、道教を信じるようになり軍を離れ、道士として受戒し莫高窟に住むようになった。
 
莫高窟は西暦355年から約1000年に渡って造営が続けられた石窟式の仏教寺院だ。しかし14世紀後半からは次第に忘れられ、1900年当時はみすぼらしい道観(道教寺院)としてわずかな道士がいるだけだった。
 
王円籙が莫高窟に居住しはじめたのは1897年だったとされる。信者からの喜撰に頼る生活であったが、洞や施設の補修や大規模な清掃などを行っていたという。道士としては熱心かつ真面目だったと考えてよい。
 
王は1900年6月25日、現在は第16窟とされる洞内で清掃・整理作業をしていた弟子から、壁面を叩いてみたところ、後ろ側にまだ空間があるようだとの報告を受けた。すでに夜遅かったが、二人で確認することにした。すると、第16窟の北面の壁上部に小さな扉があった。扉を開けると、1辺約2.6メートルのほぼ正方形で、高さはほぼ3メートルの部屋があった。室内には、大量の文章や紙や絹布に描かれた絵画、刺繍などが天井まで積み重ねられていた。点数は5万点以上にのぼったとされる。
 
王円籙は字がほとんど読めなかった。文書の発見を現地の役所に報告したが、放置された。すると英国の探検家、オーレル・スタインが話を聞きつけて1907年に訪れ、馬蹄銀4個で王円籙が発見した資料のうちから数千点を買い取った。馬蹄銀は清朝期に貨幣として使われた銀塊。いずれにせよ、かけがいのない貴重な文化財を極めて安価な金銭で入手したと言える。オーレル・スタインが収集した資料は大英博物館に収蔵されることになった。
 
翌07年にはフランス人探検家のポール・ペリオが訪れ、やはり資料数千点を購入した。ペリオは中国語に堪能で、価値が特に高いと考えられる文献を選んだとされる。
 
外国人が古い資料を買っているとの噂を知った清朝政府は敦煌文献の保護を命じ北京に運ばせた。しかし王円籙は資料の一部を隠し持っていて、その後、日本の大谷探検隊(1912年)やロシアのオルデンブルク探検隊(1914年)に数百点ほどを売った。さらに1924年に訪れた米国のウォーナー探検隊(1924年)は薬品を用いて壁画を剥いで持ち去った。王円籙が容認したかどうかは不明。
 
王円籙は敦煌文献の価値を全く理解していなかった。ただし売却は必ずしも私利私欲のためとも言えず、文献の売却で得た金銭を用いて敦煌太清宮道観を造営している。
 
なお、スタインら欧米や日本の探検家の行為は現在の視点からは文化財の収奪と言わざるをえないが、スタインが莫高窟を訪れた時、王円籙は敦煌文献の一部を燃やして、灰を「薬」として周辺住民に売り始めていたという。スタインが敦煌文献の情報を得なかった、あるいは無視/軽視した場合、敦煌文献が次々に灰にされた可能性は否定できない。
 
敦煌文献の大半は漢語による仏典だ。しかしチベット語・サンスクリット語・コータン語・クチャ語・ソグド語・西夏語・ウイグル語・モンゴル語、ヘブライ語などの文献もあり、内容もゾロアスター教・マニ教・景教(キリスト教ネストリウス派)などの経典、唐代の講唱の実態を示す文書、あるいは売買契約書や寺子屋の教科書などの日常的な文書など極めて広範だ。そのため、失われた言語や宗教、当時の民俗・政治の実態を研究する上で極めて貴重とされている。
 
密閉された洞内に置かれていた理由や経緯は不明だが、さまざま
な文書が混在していることから、「とりあえずは必要がなさそうだと思われた文書を、とりあえず残しておいた」とする説が有力だ。
 
王円籙が発見した文献の中には、全25曲の楽譜も存在した(敦煌琵琶譜、現在はフランス国立図書館が収蔵)。書かれた日付は唐代から五代期で、中国に残されていた最も古い楽譜の一つとされている。しかし現在も解読法が確定したとは言えない状況だ。
 
なお、日本にはさらに古い、600年ごろに書かれた可能性のある楽譜の「碣石調幽蘭第五」が残っている。琴(きん)という楽器(日本の「おこと」とは異なる。現在は古琴と呼ばれることが多い)の楽譜で、唐代以降はすたれてしまった「指使いをすべて文章として指定する」方式で書かれている。敦煌琵琶譜とは異なり記譜上の略号化がないだけに復元演奏は比較的容易で、同曲は琴の標準的レパートリーの一つになった。
 
敦煌琵琶譜の解読で成果を最初に出したのは日本人音楽研究者の林謙三(はやし・けんぞう、1899-1976年)だった。林の研究を下敷きにして、さまざまな解読が発表されることになった。林謙三は雅楽の古い楽譜の解読などでも功績がある。中国の学界は林謙三を、中国古代音楽史の研究で中国内外を通じて最も重要な成果を残した研究者の一人と、極めて高く評価している。(編集担当:如月隼人)

【関連】

東アジア今日は何の日(一覧)