東アジア今日は何の日:6月26日~北京・紫禁城で大火災、宦官追放のきっかけに(1923)

 
1923年9月26日深夜、北京市内にある皇帝の居城、紫禁城(現・故宮博物院)で火災が発生した。燃えたのは建福宮などで、書画など膨大な数の文化財やその他の財宝が焼失した。この火災が、紫禁城からの宦官追放につながった。
 
愛新覚羅溥儀(宣統帝)は1911年に勃発した辛亥革命のため12年2月に退位したが、紫禁城での生活を続けることや、皇帝の尊称を使い続けることが認められていた(清室優待条件)。
 
火災発生は26日深夜だったとみられる。ただし、同火災を紹介する文章の中には、27日だったとする場合もある。27日午前0時ごろに火災を目撃したのはなどとする証言の記録があるので、混乱したと思われる。
 
紫禁城警護の警察官と軍部隊が消火しようとした。しかし当時の紫禁城には水道が通っておらず、使用される水は北京市郊外の玉泉山から運んでいた。井戸も少なかった。紫禁城周囲からの堀から水を導いて消火しようとしたが、ポンプ・ホースは1セットしかなかった。そのため、消火活動はほとんどできなかった。
 
世が明けてから、イタリア大使館が応援のために派遣した兵士数十人が到着した。イタリア軍部隊は、延焼を食い止めるために炎上場所の周囲の建物を破壊した。このため、火がようやくおさまった。
 
火災の原因は解明できなかったが、漏電の可能性があるという。紫禁城はその前から自家発電を行い、電力を皇族らの映画鑑賞などもに充てていた。1904年には映画の上映中にぼやを出したことがあったとされる。また、防火担当の宦官はいたが、電気については知識が全くなかったという。
 
1923年9月26日の火災では、書画など大量の文化財が消失した。また、焼け跡から集められた溶けた金だけで、1トン分以上になったとされる。
 
当時の紫禁城には、大量の宦官がいた。皇帝一族は辛亥革命で清朝が実権を失った後も紫禁城内でそれまで通りの生活を行うことが認められていたため、皇族の身の回りの世話をする宦官も、ほとんどが留められたという。
 
新たに成立した中華民国政府は皇室のために400万元の歳費を支給しつづけていたが、溥儀は2000人以上にのぼる宦官を養うために大量の金銭が必要なことに頭を悩ませていた。
 
さらに紫禁城では、宦官が財宝を無断で持ち出し売りさばき、代金を着服することが相次いでいた。溥儀は火災の原因について、財宝を持ち出した宦官が証拠隠しに放火したと疑った。さらに、皇室の権威が失墜して宦官を統制できなくなったことで、宦官の裏切りで殺されるのではないかと恐怖するようになったとされる。
 
溥儀は火災の後に、紫禁城警備の警察に命じて宦官全員を紫禁城から追い出させた。しかし今度は、皇室一家の生活が不能になった。食事の際に給仕をする者が必要であることも考えていなかったなどによるという。そこで、宦官数十人を改めて呼び戻して生活の世話をさせることにした。
 
1年余り後の1924年10月22日のクーデターで政権を握った馮玉祥は、それまでの「清室優待条件」を放棄して、溥儀ら皇室を紫禁城から追放した。(編集担当:如月隼人)

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