東アジア今日は何の日:6月28日~国民党主催のチンギス・ハン陵大祭、拡大する日本勢力に対抗

1942年6月28日、甘粛省蘭州市でチンギス・ハン陵大祭が開催された。チンギス・ハン陵は現在の内モンゴル自治区中南部のオルドスにあるが、日本軍などの侵攻を受け、国民政府(中華民国)は前年の1941年にチンギス・ハン陵を蘭州に移していた。
 
日本は1932年に満洲国を成立させたが、ソ連やソ連の忠実な衛星国だったモンゴル人民共和国からの「スパイ侵入」などが大きな問題だった。スパイの多くはモンゴル人民共和国から内モンゴルに進入し満洲国などに到達した。
 
日本が内モンゴル地域での勢力拡大を進めたのはスパイ問題の軽減も大きな動機だったとされる。一方で、内モンゴル地域のモンゴル人の多くは中国の支配からの離脱を望んでいたので、まずは複数地域に小規模な自治政府を樹立させた。さらに現地駐屯の日本軍が主導して、1943年には蒙疆聯合自治政府を樹立させ、1941年には蒙古自治邦政府とした、政府所在地は河北省張家口市で、主席はチンギス・ハン30代目子孫のデムチュクドンロブ(徳王)が務めた。
 
蒙古自治邦では、国境を接するモンゴル人民共和国から侵入を試みる工作員が絶えなかった。日本の軍人も国境地帯に広く配置されていた。当時、軍人だった夫が国境地帯で勤務していたという女性は、「お客さん(工作員)がしょっちゅう来る」などと聞かされていたという(夫は終戦時に行方不明になり帰国せず)。
 
蒙古自治邦政府の当初の支配地域は内モンゴルの中部以東だったが、日本軍は蒙古自治邦政府軍と共同で内モンゴル西部にも進軍した。中国側の反撃は相当に激しく、大規模な戦闘で日本側が敗退したこともあった。
 
チンギス・ハン陵があるのは、内モンゴル自治区の中央部分からはやや西よりにあるオルドス高原だ。中華民国政府は、モンゴル人の心の支えであるチンギス・ハン陵が日本軍に占領させることを恐れ、事前に霊廟を蘭州に移させた(形式上はチンギス・ハン陵を守る現地モンゴル人指導者の請願に応えたことにした)。
 
1942年6月28日に蘭州で行われたチンギス・ハン陵大祭を主宰したのは、北京から派遣された趙丕廉だった。趙丕廉は山西省出身の教育家で、当時は中華民国でモンゴルやチベットを統括する蒙蔵委員会の副委員長だった。
 
チンギス・ハン陵大祭は「異常に盛大」であり、「民族英雄」「威震欧亜(欧州・アジアを震撼させる威風)」などと書かれた扁額が飾られた。また、チンギス・ハン陵を守るとして蘭州まで従ってきたモンゴル人には慰労金が配布されたという。
 
チンギス・ハンは1226年に西夏への侵攻を開始。1227年夏に西夏の降伏を受け入れた。しかし病を発し、モンゴル高原に引き上げる途中の8月18日に没した。チンギス・ハンの遺体はモンゴル高原まで搬送されて葬られたが墓標などは立てず、逆に大量の騎馬兵が遺体を埋葬した周囲を走り回り、場所を隠した。現在もチンギス・ハンの埋葬場所は特定されていない。技術的には特定が可能と見られているが、チンギス・ハンを信仰の対象とし、墓を暴くことに反発するモンゴル人の感情に配慮するためだ。
 
チンギス・ハン陵は遺体を安置する場所でなく、あくまでも霊廟。この霊廟を守り続けてきたのが、「宮廷の人々」を意味する「オルドス」と呼ばれる部族。オルドス部族は古くはモンゴル高原北東部に居住したが、その後、移動して清朝時代には現在の内モンゴル中南部で生活していた。
 
モンゴル遊牧民は古くは、かなり遠方にまで移動することが珍しくなったが、清朝時代になると遊牧を許される範囲が部族ごとに限定された(ホショー、中国語では「旗」)。そのため部族名が地名になった例も多い。現在の内モンゴル自治区オルドス市はその一例。
 
なお、モンゴル語では「ハン(古いモンゴル語ではカン)」と「ハーン(同、カガン)」を区別する。「ハン」は一定地域の支配者で「王」に相当、「ハーン」はすべての「王」に君臨する支配者で「皇帝」に相当する用語。チンギス・ハンは自らを「ハン」と称したが、死後に「ハーン」の称号が使われるようになった。(編集担当:如月隼人)

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