東アジア今日は何の日:6月29日~中国共産党が文革を否定、華国鋒が辞任(1981)

中国共産党第11期中央委員会第6回全体会議(第11期六中全会)が1981年6月29日に閉幕した。同会議は1966年から76年まで続いた文化大革命を全面否定したことで歴史上も極めて重要。また、華国鋒が党主席を辞任したことで、その後の鄧小平体制が最終的に確立された。
 
中国共産党中央委員会とは、同党の最高指導機関であり、中共中央、党中央などと呼ばれている。同党の最終的な意思決定は全国代表大会(党大会)によるが、開催頻度が少ないこともあり(現在は5年に1度)、中央委員会全体会議(中全会)で重要事項が決まることが珍しくない。
 
中国共産党が1945年6月に中央委員会主席(党主席)の制度を設けて以来、毛沢東は一貫して主席の地位にあった。華国鋒は(1921-2008年)毛沢東の忠実な部下として昇進。1975年には副首相に就任。76年1月8日に周恩来首相が死去すると、首相代行に就任した。
 
華国鋒は一方で、文化大革命期後期に大きな権力を得た江青(毛沢東夫人)や張春橋ら「文革四人組」と鋭く対立した。「四人組」を率いたのは江青だったが、良心や判断力がある政治家ならば、江青は政治的能力がないだけでなく、人格面に大きな欠陥があるのは明らかだったという。
 
毛沢東は76年9月9日に死去。華国鋒は「四人組」の逮捕に同意。10月6日の電撃的な逮捕は成功した。翌10月7日、中央政治局の決議により華国鋒は党主席及び党中央軍事委員会主席に就任した。77年7月の第10期三中全会は華国鋒の党主席・中央軍事委員会主席への就任を追認した。
 
また、第10期三中全会は鄧小平が党副主席、副首相、中央軍事委員会副主席就任を決議。76年4月の天安門事件(第1次)で失脚していた鄧小平の完全復活が決定した。
華国鋒は政治面では毛沢東の後継者を任じており、「両箇凡是(二つのすべて)」すなわち「毛沢東主席のすべての決定を断固として維持、毛沢東主席のすべての指示を終始変わらず遵守」をスローガンとしたので、「凡是派(すべて派)」などと呼ばれた。一方の鄧小平は、教条主義的な極左路線を否定し、柔軟な手段で食料生産を確保し、工業も発展させて経済成長をもたらせてこそ、共産党体制の維持、ひいては中国の安定と発展が実現するとの考えだった。
 
77年8月の第11期一中全会では、鄧小平以外に葉剣英、李先念、汪東興が党副主席に就任した。葉剣英と李先念は鄧小平と同調する立場で、汪東興は華国鋒と同じ「すべて派」だった。
 
鄧小平は華国鋒らを厳しく批判すると同時に「同志」を増やしていった。鄧小平は78年12月に開催された第11期三中全会までに、主導権を完全に握っていた。同会議では毛沢東の「階級闘争をもって綱要とする」が放棄された。さらに、文革中に失脚して死亡した幹部の名誉回復や存命中の元幹部の復活、文革時代の冤罪事件などに対する調査着手も決まった。
 
また、三中全会前の同年5月からはメディアを舞台に「真理の標準についての大討論」が始まっていた。発表された論説の主旨は「実践こそが、共産党の路線の正しさを判断するための唯一の標準」だった。実際には研究者やジャーナリストが発表する文章を通しての、華国鋒が主導する「両箇凡是」への批判/攻撃だった。華国鋒は第11期三中全会で「両箇凡是」について釈明することを強いられた。また、「すべて派」の汪東興は党副主席に留任せず、失脚が決まった。
 
第11期三中全会は新方針として鄧小平の提唱する「改革開放」路線を採用。中国共産党が「社会主義市場経済」の建設を進めることが決まった。
 
そして、1981年6月27日から29日まで開催された中国共産党第11期六中全会では「建国以来の党の若干の歴史問題についての決議」を採択した。
 
同「決議」は「党、国家と人民は建国以来最も厳しい挫折と損失に遭遇した」と、文化大革命を否定。さらに、文革について「指導者(毛沢東)が誤って発動し、反同集団(林彪や江青ら四人組)に利用され、党、国家、各民族に大きな災難である内乱をもたらした」と、毛沢東の責任を指摘した。
 
ただし、毛沢東への評価については、「偉大なマルクス主義者であり偉大なプロレタリア階級革命家」と規定し「功績第一、誤り第二」とした。文革は否定するが、中華人民共和国の成立や体制の確立などの功績をさらに高く評価することで、共産党の権威崩壊を防ぐ」との鄧小平の意図通りの結果を達成したと言える。
 
華国鋒は六中全会で、自ら党主席の辞任を申し出る形で政治の第一線から退いた。後任の党主席には胡耀邦が就任した。政治と権力の流れのあらましからすれば、第11期三中全会で鄧小平の権力掌握と党としての新路線が決定し、第11期六中全会は、その「最終的な仕上げ」だったと理解できる。
 
なお、華国鋒は権力をすべて失ったが最後まで共産党員でありつづけ、迫害されることはなかった。文革終了時までの権力闘争が、相手からの権力奪取に留まらず、リンチも伴う肉体面への迫害に及び事例が多かったことを教訓として、自らも迫害の対象になった経験のある鄧小平の、「思想や政治方針に問題ありとして権力を失ったとしても、具体的な犯罪行為のない限り、それ以上の処罰/迫害は控える」との方式を定着させる意図があったと考えられている。
 
華国鋒は2002年までは約200人で構成される共産党中央委員会委員の一人としてとどまった。それ以降は「ヒラの党員」の立場となったが、中央委員会委員の任期が終了した後の02年と07年の党全国代表大会には「特別代表」として招待され出席した。周囲から「主席!」と声を掛けられると笑顔で手を振って応えたという。

<
div> 

当時の華国鋒の心境は不明だが、かつては中国の政治トップだったという「面子(メンツ)」にこだわるよりも、中国で穏便な権力移譲が実現したことを示し続けることが、自分の役割と判断していたと理解してよいだろう。(編集担当:如月隼人)

【関連】

東アジア今日は何の日(一覧)