東アジア今日は何の日:6月30日~「青天白日満地紅」を中華民国国旗に制定(1924)

 
中国国民党中央執行委員会は1924年6月30日、「青天白日満地紅旗」を中華民国国旗に制定すると決定した。
 
中国では1911年に清朝打倒を目指す辛亥革命が勃発し、翌12年には中華民国が成立した。しかし中華民国は、清朝側の全権を握った袁世凱と臨時大統領(臨時大統領)の孫文らが、袁世凱に「臨時大統領の座を譲る」などを条件とする取引で、清朝との全面的な軍事衝突を避けて革命に成功するなど、当初から不自然な面の多い国だった。
 
中華民国が国旗として最初に定めたのは「五色旗」だった。同旗は「赤」が漢族を、「黄」が満洲族を、「青」がモンゴル族を、「白」が回族(及びイスラム系諸民族)を、「黒」がチベット族を表し、民族の共存と各民族にとって公明正大な政治を示すものとされた。
中国人のうちで圧倒的多数を占める漢人にとって、清朝は満洲族による異民族支配だった。そのため、清朝期の抵抗/反抗運動は「反満」の色彩を帯びることが一般的だった。孫文も当初は「反満」の立場だったが、「五色旗」が採用されたことは、辛亥革命がすでに中国における、複数民族の調和を念頭に置いていたことを示すと言ってもよいだろう。
 
ただし、辛亥革命が理念とした複数民族の調和は、少数民族に対して有無を言わせず中国への帰属を強いることにもなった。清朝の少数民族に対する扱いは、清朝に服従さえすれば、少数民族とその領域内部の問題にはほとんど関与しないものだった。
 
しかし清朝も末期に近づくと欧米列強(主に英国とロシア)が、清朝が「版図」と見なしていた少数民族地域に勢力を伸ばし始めた。清朝としては放置することができなくなり、軍の派遣や行政管理の強化を行っていた。いわゆる少数民族側にすれば、清朝の方針転換は「裏切り行為」としか思えなかった。中華民国は少数民族に対して、清朝末期の状況を踏襲して、場合によってはそれ以上に厳格に、中央政府の統制を受け入れることを求めたと言える。現在に至る中国の少数民族問題は、このあたりに根源がある。
 
辛亥革命は民主的制度や責任内閣制の構築を目指していた。しかし北京に拠点を置いた袁世凱は専制政治を強行し、1915年には自らが皇帝に就任して国名を「中華帝国」とした。しかし、猛反発を受け1916年には帝政復活を撤回。その直後の同年6月に病死した。
 
袁世凱の帝政復活は、「時代錯誤の権力欲」と批判されることが一般的だが、皇帝の称号を用いないと少数民族を服従させることが困難なことを重視したとの見方もある。
中国は南部を拠点とした辛亥革命勢力と北京を拠点とする袁世凱により、南北分裂の状態になった。袁世凱の死後も分裂状態は続き、いわゆる軍閥が抗争を続けた。孫文は中国南部の革命勢力を結集し、1919年に中国国民党を創設。21年には広東省広州で革命政府(後の国民政府)を樹立した。
 
孫文はまた、ソ連に接近し、共産党員が個人の資格で国民党に入党することを認めた(第一次国共合作)。また、24年にはソ連の援助を受け広州市内に中国初の将兵養成機関の黄浦軍官学校を開設した。自前の軍事力を育成して、中国を再統一するとの構想だった。
 
国民党中央執行委員会が1924年6月30日に「青天白日満地紅旗」を中華民国国旗に定めたのも、中国再統一の一環だったと解釈できる。ただし、同旗は孫文が1914年に発表した「革命方略」でも国旗、軍旗に使用するとされており、徐々に浸透していったと思われる。なお、国民党中央執行委員会が国旗と定めたのは、1924年6月23日とする説もある。
 
「青天白日満地紅旗」の「青天」の部分は、「どこまでも続く青空で、純潔さと平和と自由の追求」を、「白日」の部分は「民主と自由の光芒が周囲を照らし、革命の精鋭となり民衆のために最前線に立つこと」、「満地紅」の部分は「大地を染めた革命に倒れた先人の流した血」と「国土に満ち溢れる博愛精神」を示すとされる。
 
孫文は1925年に死去したが、蒋介石が主導することになった1926年からの北伐(第3次)では、「青天白日满地红旗」のもとに国民軍が戦いを進めた。同北伐は勝利をおさめたが、各地の軍閥勢力を完全に撃滅したわけでなく、多くの軍閥が残存したまま国民党と「手を打った」形の不完全な結果に終わった。
 
第二次世界大戦後は、中華民国政府が台湾を統治したので、「青天白日満地紅旗」は事実上の「台湾国旗」になった。台湾社会でも同旗は広く受け入れられているが、台湾独立志向が強い人の場合には「もともと台湾とは縁のない中国の旗」として反発する場合もある。(編集担当:如月隼人)

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