「ローマ人の物語」を再読中、いろいろ考えさせられます

塩野七生さんの「ローマ人の物語」を再読しています。とにかく長編で、文庫で全43冊。それぞれの1冊は割とコンパクトなんですが、全編を読もうとすれば、かなり膨大な量です。


以前にも、当時刊行されていた、文庫版の34冊目まで読んだんですけど、再読しています。カタカナの固有名詞が多くて、しかもローマ人の場合、同じ名の人が多くて、混乱しがち。


例えば、政争がクーデターに発展した場合、「襲撃から逃れて助かった人」と、「その後の逆襲で殺された人」の名が同じだったりする。ややこしい。だから、同じ所を2度も3度も読んで、頭の中を整理しつつ進んでいます。


さて、塩野さんが強調しているのは、ローマ人の寛容さが大発展につながったということです。


とは言っても「憐憫の感情」にもとづく寛容ではなかった。少なくとも、「憐憫」だけが主要な理由ではなかった。戦略的な寛容だった。


ローマが発展する。すると周辺国との間に摩擦が起こる。戦争になる。相手を屈服させる。そこで相手を安直に滅ぼしたりすると、その外の民族とまた摩擦が発生する。防衛の負担が急増する。耐えきれなくなる、


そこで屈服させた相手の息の根をとめることは、できるだけしない。すると、昨日の敵はただちに、さらに外側の民族に対しての「防波堤」なってくれる。


「昨日の敵」をどうしたかと言えば、ローマに対して十分に貢献した後に、ローマ市民権を与えた。ローマ市民としての新たな義務も生じたけど、与えられる権利の方が大きかった。だから、喜んでローマ市民になった。ローマはこれを繰り返して拡大していった。いやあ、大したものです。


建国初期には、降伏した相手に対してただちにローマ市民権を与えて、自分たちの社会に取り込むこともしている。かのユリウス・カエサル、つまりシーザーも、建国初期のローマに敗れた相手側の貴族の子孫だそうです。


それから、ローマ人は、相手が戦いを起こしたこと自体は「悪」と考えなかった。主張と主張のぶつかりあいなので、開戦の責任そのものを問うことはしなかった。「『平和に対する罪』なんて発想はなかった」という塩野さんの指摘は、第二次世界大戦の戦後処理に対する皮肉だなあ。


ローマは相手が降伏した場合には、相手を「同盟国」とすることが多かった。その時の主要な条件は「定められた条件にもとづいて、ローマに協力すること」、「他のローマの同盟国に対して、戦争を起こさないこと」でした。同盟国間に問題が発生したら、ローマが調停をする。


つまり、「ローマの覇権を認めて、ローマが築く秩序に参画せよ」ということは求めたが、それ以外は実に寛容だった。塩野さんは「平等な立場の同盟は、機能しなくなる」と指摘しています。双方が主導権を争うことになるからです。


一方が強大であり、主導権を握って同盟関係を築く。ただし、同盟の条件は、相手が納得できる範囲にとどめる。これが同盟関係を維持し、機能させるための「鍵」だったそうです。このあたり、なかなか考えさせられます。


なんか、現代の日米関係に似ている。ただ、ローマの場合、戦勝した相手の内政や社会のシステムには全く手をつけず、軍事力についての制限も、極力自制したのだから、ローマは日本に勝利した米国よりも、よほど寛容でした。


それから、ローマは戦いに勝った相手の指導層の息子を「人質」に取る習慣があった。といっても虐待するわけでは決してなく、ローマ市内の貴族などの家にホームステイさせた。そして教育を施した。


結局は、相手の次世代の指導層はローマのシンパになるわけで、同盟関係を長期にわたって強固にすることにつながったそうです。


このあたりも本当に“にくいほど巧み”な国際秩序の構築法です。塩野さんは、米国が戦後、日本人学生に対して実施した「フルブライト留学」と同様の方法としています。


ローマが相手に対して厳しく対処したのは、同盟国がローマへの敵対勢力に加担した場合なんかです。この場合には、戦勝後に指導層を処刑したり、兵士や住民を奴隷として売り払ったりしている。最終的にはローマの属州なんかにした。つまり、独立国の地位を奪った。


ローマ人は契約、つまり約束を重視したので、同盟国の離反、つまり裏切り行為には厳しく対処した。他の同盟国に対するしめしがつかないということも、あったのでしょう。


それでも、抵抗をやめて降伏した住民を皆殺しにするなんてことはしていません。せいぜい、住民を奴隷にしたり移住させて、その都市を徹底的に破壊したぐらいです。まあ、殺すよりも奴隷にして売り払った方が、収益になるということもあった。自軍の兵士に報酬として奴隷を与えることもよくあったそうです。


勃興期のローマについて、とくにその「戦略的寛容さ」にはいろいろと考えさせられることが多い。というのは、今の日本はどうも、他者に対する排斥感情が高まっているように思えてならないからです。


在日外国人について、さまざまな問題があるのは承知しています。日本に敵対する言動をする国の人が日本国内で多く定住しているのは、気分がよいとは言えない。何か、問題が出るかもしれない。というか、一部で出ている。そういう国の出身者も、けっこう多い。


でもなあ。これはコメントでも書きましたが、多くの外国国籍の人が「とにかく日本に行きたい」、「日本にいたい」と思っているうちが“花”だと思うのですよ。


「日本? けっ! あんなとこ、行ってもしょーがないじゃん」と思われるようになったのでは、日本もおしまいです。p>


ローマ人の場合、圧倒的に優勢な文明と軍事力、政治力を維持した上で、ローマ方式に同調する外国人を受け入れた。その上で、それぞれの民族の得意とする分野を、ローマ社会が十分に利用できるシステムを作った。騎兵部隊ではガリア人なんかが大きな戦力になった。海上交易ではギリシャ人が大活躍し、結果としてローマに大きな富をもたらした。


ローマは異民族に対しても市民権、つまり国籍をかなり大盤振る舞いしていますね。市民権を与えると、権利と義務が生じますから、「だれでもOK」というわけにはいかなかったのですが、それでも、現在の米国に比べても、国籍をずっと簡単に与えていたみたいです。


米国は移民の国であり、他者に国籍を与えることが必然でもあったのですから、理解もしやすいのですが、ローマの場合には出発点が農業国家でした。なんで建国初期から「国籍大盤振る舞い」という発想になったか、不思議と言えば不思議です。


ちなみに、古代社会では普通にあった「奴隷制度」ですが、ギリシャ系の都市国家では、奴隷の身分から脱却するのは、極めて難しかった。ローマでは、奴隷が解放される道筋を作っていた。


まず、奴隷と言っても必ずしも悲惨な境遇にあったわけではなく、教養があるギリシャ人の奴隷なんかは「高級教師」として優遇されていた場合もあります。塾や学校などで教えていたわけではない。貴族は裕福な人の家で「住み込みの家庭教師」をしていた。


奴隷が高齢になると、主人が解放の手続きをする場合が多かった。退職金みたいなもんだったそうです。そうでなくても、主人が大きな功績があった奴隷を解放する場合があった。そういう場合、ローマ社会の特徴でもあった「保護者」と「被保護者」という関係が元主人と解放奴隷の間には残りました。


「被保護者」といっても、一方的に保護してもらうのではなく、日ごろから、あるいは重大な局面で「保護者」のために尽くす。塩野さんによれば、現在の日本での政治家と後援会会員みたいなものです。社会における、擬似的な親子関係と言ってもよいかな。


解放奴隷は「自由民」ではあったが、正規の国籍保有者である市民に保障されている権利はなかった。しかし、解放奴隷の子には、ローマ市民になる道も作った。解放奴隷の子が、皇帝になった例すらあります。


まあもちろん、鉱山で労働されられる奴隷や剣闘士なんかの悲惨な境遇の奴隷も多く、大反乱も発生していますけどね。


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まあ、あまり書きすぎてもなんですから、このくらいにしておきますが、とにかく今の日本社会と比較しながら読み進むと、ものすごく興味深い内容が“てんこ盛り”です。今はちょうどユリウス・カエサル、つまりシーザーのところを読んでおります。ローマ史の中でもクライマックスのひとつですね。いやはや、まったく興味津津でページをめくっております。


なお、この書物ですが、いくつかの部分では歴史学の定説とはちょっと違うんじゃないかなと思われる部分もあります。その他の書物や、信頼できるウェブサイトなんかで確認しながら読むことをお勧めします。


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余談ですが、ヨーロッパなんかでタブーになっている「ナチス式の敬礼」はそもそも、ローマの敬礼だったそうです。右手を斜め上に突き出す。もっともローマでは「ナチス式」より腕を上げる角度が小さかったみたいですねどね。


「大ローマ」の復活を目指したムッソリーニが取り入れ、それをさらに、ヒトラーが採用したそうです。たしかにあのポーズ、カッコいいよなあ。