東アジア今日は何の日:9月6日~清とロシアがネルチンスク条約を締結(1689年)

清とロシアは1689年9月6日、ネルチンスク条約を締結した。同条約は平等条約だったが、清側に有利だった。そのため、ロシアではソフィア・アレクセーエヴナ摂政らが権力を失い、「大帝」とも称されることになるピョートル1世の親政が始まるきかっけの一つにもなった。なお、ネルチンスク条約の締結日は、ロシアが当時使用していたユリウス暦にもとづき8月27日と紹介される場合もある。

 
スペインやポルトガル、さらに英国やフランスなど西欧諸国は海に乗り出すことで植民地を獲得したが、ロシアは陸づたいに東進して植民地を獲得していった。ロシア人が特に狙ったのは毛皮で、支配した現地住民に採取と上納を強要した毛皮を欧州で売ることで、大きな利益を出した。
 
ロシア人はシベリアに到達すると黒龍江を南下して、川沿いのアルバジンに砦を築いた。現地では農耕も営まれた。
 
清にとっては、違法侵入だった。そこで17世紀半ばになると、清と李氏朝鮮の連合軍がアルバジンを攻撃した。清側が砦を陥落させ、ロシア側が再建する状況が繰り返された。戦いを繰り返すことは双方にとって負担であるため、条約締結の交渉を行うことになった。
 
当時の清は康熙帝の治世で、国力は充実していた。さらに、清はモンゴルの西部部族あるジュンガル部と戦争をしていたため、ロシアとの関係を安定させてジュンガル部を孤立させることは得策だった。ロシアは清との交易を望んでいた。生活に必要な物資を本国から陸送すると大きな負担がかかるからだ。しかも、本国からの食料輸送が途絶えた場合には、進出していたロシア人が全滅しかねない。
 
ロシアでは、ピョートル1世が1672年に即位していたが、実権を握っていたのはピョートル1世の異母姉のソフィア・アレクセーエヴナ摂政や有力貴族のヴァシーリー・ゴリツィンだった。
 
アレクセーエヴナ摂政とゴリツィンは特使を派遣し、清側との交渉に当たらせた。交渉の場所は、バイカル湖の東約650キロメートルのネルチンスクだった。
 
ネルチンスクで結ばれた条約では、現在のロシア連邦・沿海地方などの「外満洲」とも呼ばれる地域も、すべて清の領土とされた。そのため、ロシアはかねてから欲していた極東地域による不凍港を得ることができなかった。ロシアにとって交渉は失敗だったと言える。
 
権力者だったアレクセーエヴナ摂政やゴリツィンは、リミア遠征の失敗やネルチンスク条約がロシアにとって不利な内容だったためなどで権威を失い、失脚することになった。ロシア宮廷内ではピョートル1世の母のナタリヤ・ナルイシキナが実権を回復したが、ナルイシキナが1694年に死去したことで、ピョートル1世の親政が始まった。
 
一方の清朝は19世紀になると国力が衰え始めた。爆発的な人口増加に従来の社会システムが対応できなかったことなどが原因とされている。さらに1840年に始まったアヘン戦争では清の軍事力が西洋列強に比べて大きく劣ることが露呈した。1851年に発生した太平天国の乱でも、清の統治能力と軍事力の問題が明らかになった。
 
そのため、西洋列強は自らの力を背景に、清にとって不利な「不平等条約」を押し付けるようになった。
 
ロシアと清が1858年に締結したアイグン条約も不平等条約で、ネルチンスク条約では清の領土だった黒龍江北側の約60万平方キロメートルがロシア領になり、ウスリー川以東の40万平方キロメートルが清とロシアの共同管理(事実上のロシア領)になった。清国政府は同条約を批准しなかったが、1860年の北京条約で、ロシアには清にアイグン条約を認めさせた。北京条約はアロー戦争の最終講和条約として清が英国、フランス、ロシアと締結した一連の条約の総称だ。ロシアは同戦争に参戦しなかったが、勝利した英仏と清の仲介をしたことで、清から広大な領土を取得する条約を結んだ。
(編集担当:如月隼人)

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