東アジア今日は何の日:9月9日~中国・毛沢東主席が死去(1976年)

中国共産党の毛沢東主席が1976年9月9日、北京市にある中国の政治の中心地である中南海にある自室で死去した。82歳だった。1月には周恩来首相が死去、7月には朱徳元帥が死去するなど、同年は中国上層部の世代交代を象徴する年にもなった。写真は北京市内の毛主席紀念堂に安置されている毛沢東の遺体。
 
中華人民共和国の現在に至るまでのあり方を決定する上で、毛沢東は最大の影響力を発揮した人物と言ってよい。本来は頑強な肉体の持ち主だったが、1971年代になると体力の衰えが目立つようになったという。
 
毛沢東は1935年の遵義会議をきっかけに、権力掌握を進めていく。当時は毛沢東の「上司」だった周恩来も、毛沢東の「忠実な部下」の役割に甘んじるようになる。
 
1949年10月に中華人民共和国が発足すると、毛沢東の「独断専行」が目立つようになる。毛沢東は急速な社会主義化や現実を無視した強引な経済建設を進めた。異議を唱える者は容赦なく弾圧した。同時に、毛沢東の「神格化」も進行した。1966年から本格化させた文化大革命は実質的には毛沢東の権力掌握を目的にした政治運動であり、中国に大きな混乱と多くの犠牲者を出した。
 
現在から見れば、中華人民共和国成立以来の毛沢東の動きは中国に大きな「災難」をもたらしたものだが、資本主義と社会主義がイデオロギーで厳しく対立する冷戦の中で、しかも台湾では蒋介石をトップとする極端な反共政権が存続していたことを考えれば、独裁体制確立の結果として中華人民共和国を揺るぎない存在として継続させた毛沢東に対する評価には、微妙な面も出てくる。
 
神格化の進行に伴い、毛沢東に逆らうことはできなくなっていった。例えば周恩来は、毛沢東よりも穏健な考えだったが、毛沢東に多少批判されただけで、即座に自己批判して軌道を修正している。
 
ただし、毛沢東の周辺でも、毛沢東に心酔していたとみられる人物もいれば(華国鋒など)、毛沢東の権威を利用して自らの地位を高めることが主目的だったと思われる人物(江青)など、さまざまだった。
 
毛沢東は1972年2月に訪中したニクソン米大統領と会談した際には、自力で立ち上がれない状態だった。医療スタッフは毛沢東の「不測の事態」に備えて、医療機器を準備して隣室で待機していた。
 
毛沢東は筋萎縮性側索硬化症を患っていたとされる。1975年には白内障も悪化して、失明した。その後、手術を受け右目の視力は回復した。毛沢東にとって古典歴史書を中心にした読書は最大の楽しみで、文字を読めない状況は耐え難かったという。
 
健康状態の悪化は続き、毛沢東は1976年9月9日午前0時10分に、中南海にある自室で死去した。
毛沢東の後継者になったのは華国鋒だった。華国鋒らは毛沢東の死から約1カ月後の10月6日、江青らいわゆる「文革四人組」を電撃逮捕した。1977年には、急進的な社会主義政策に異議を持ち失脚していたトウ小平が党主席、副首相などとして復活。
 
トウ小平は文革派であり、毛沢東路線の継承を強調していた華国鋒らとの権力闘争に勝利。1981年6月の中国共産党中央委員会第6回全体会議(11期6中全会)では、「建国以来の党の若干の歴史問題についての決議」が採択した。
 
11期6中全会および「決議」の採択はトウ小平が主導したものだった。「決議」は文化大革命を「指導者が誤って発動し、反動集団に利用され、党、国家各民族に大きな災難である内乱をもたらした」と全面否定し、主要な責任は毛沢東にあったと断じた。
 
一方で、毛沢東については、「偉大なマルクス主義者であり、偉大なプロレタリア階級革命家」と評価し、「功績第一、誤り第二」と位置づけた。食料生産の増強から始めて中国経済の建て直しを目指したトウ小平としては、文化大革命を全面否定する必要がある。その一方で、毛沢東を否定的に評価したのでは中国共産党の権威が一気に失墜する恐れがある。それらを考慮した上での「玉虫色の毛沢東評価」だったと考えてよい。
 
毛沢東については、同決議による「公式評価」が現在も踏襲されている。
 
【1976年のその他の出来事】
・中国・周恩来首相が死去(1月)
・東京地検がロッキード事件の強制捜査を開始(2月)
・アップルコンピュータ―設立(4月)
・南北ベトナムが統一(7月)
・唐山地震(7月)
・ ピンク・レディーが「ペッパー警部」でレコードデビュー(8月)
・中国・毛沢東主席が死去(9月)
・週刊少年ジャンプで「こち亀」の連載開始(9月)
・王貞治選手がベーブ・ルースを抜く公式戦715号本塁打(10月)
・荒井由実と松任谷正隆が結婚。(11月)
・石屋製菓が北海道銘菓「白い恋人」発売。(12月)
(編集担当:如月隼人)

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