東アジア今日は何の日:9月16日~蒋介石が自動車事故、健康状態が急速に悪化(1969年)

台湾北部の景勝地、陽明山で1969年9月16日、蒋介石総統が乗っていた車が事故を起こした。蒋介石総統は負傷した。総統はもともと頑健な身体の持ち主だったが、それ以降は健康状態が悪化していき、公の場に姿を現すこともなくなったという。
 
蒋介石総統は当時82歳だった。陽明山地区内の施設で午前中から開かれた軍事関連の会議に宋美齢夫人とともに出席。昼食人には近くの官邸に夫人と共に自動車乗って戻った。蒋介石夫妻は午後4時ごろ、改めて会議場に向った。予定通りだったという。
 
蒋介石の車列は基本的に、5台の大型乗用車で構成されていた。1台目は先導者、2台目は蒋介石夫妻の乗車で、ドアの開け閉めも担当する侍衛官も乗っていた。3代目は「随一車」と呼ばれ、護衛官や医務官が乗っていた。「随一車」は蒋介石の乗車に問題があった場合の代車でもあった。次の「随二車」には護衛官が乗った。5台目の車には、警備を直接担当しない随行員や武官、秘書らが乗った。
 
それ以外にも護衛担当者を乗せる車が随行するので、移動する人数はしばしば100人以上になったという。
 
蒋介石の身体の安全は十分に守られていたはずだが、事故は発生した。路線バスとすれ違おうとした時に、そのバスの後ろから軍用車両が猛スピードで飛び出してきたという。先導車は急停止して、衝突を避けた。しかし蒋介石が乗った車はブレーキが間に合わず、先導車に激しく追突した。さらに後続の車はブレーキが間に合い、追突をさけることができた。
 
車中の蒋介石は、運転席と後部座席を仕切るガラス板に胸部などを激しくぶつけた。また、蒋介石が持っていたステッキが強く当たったため、陰嚢も大きくはれ上がったという。蒋介石は病院に搬送され治療を受けたが、心臓部分が強い衝撃を受け、大動脈と心臓弁膜が損傷を受けていることが分かった。
 
事故に遭遇してから、蒋介石の健康状態は極度に低下していった。隔月で受けていた健康診断でも、心臓弁膜の損傷が残り心臓全体が肥大していることが分かった。
 
1972年夏には肺炎を患い、入院した。退院したのは1973年12月で、「士林官邸で休養する」とされたが、事実上の引退になった。仕事は国民党の厳家淦副総裁と息子の蒋経国行政院長に任せ、重大な問題があった時だけ厳副総裁と蒋経国行政院長が蒋介石を訪ねて指示を仰いだという。また、士林官邸に戻ってからは外部からの客と会うことはなくなった。身体は衰えていった。
 
1975年4月5日午後になり、蒋介石は腹部の不快感を訴えた。情緒が不安定になり尿の量が減少した。午後10時20分には心臓発作を起こし、手当を受けたが午後23時50分に死去した。
 
なお、1969年9月16日の交通事故については、「暗殺未遂説」も出た。軍用車が猛スピードで車列に突っ込もうとしたことが不自然であり、さらに現場から逃げてしまったからだ。
 
これまでの発表によると、事故を起こしたのは陸軍の師団長の専用車だった。師団長は当日、会議に出席した後に「風俗街」に行こうとして、運転手に急ぐように命じたという。高級軍人の専用車ともなれば「傍若無人」な運転ぶりが当たり前で、路上に他の車がほとんど走っていなかったこともあり、なおさらスピードを出した。そのまま前方のバスを追い越そうとして、蒋介石の車列に遭遇したという。
 
師団長は蒋介石の車列であることは知らなかったが、車列の規模の大きさに「大変な身分の人に違いない」と思い、そのまま逃走したという。
 
その後、師団長は逮捕された。当局は、蒋介石総統の車列とは知らなかったとを認め、「最高指導者を負傷させた」罪だけを問い、「暗殺未遂」などは適用しなかった。
 
【1969年のその他の出来事】
・皇居での一般参賀で、昭和天皇パチンコ狙撃事件(1月)
・東京大学安田講堂攻防戦、大学構内での逮捕者600人以上(1月)
・ニクソンが第37代米国大統領に就任(1月)
・岡田屋、フタギ、シロが合併しジャスコ(現、イオン)設立(2月)
・中ソ国境紛争、珍宝島事件が発生(3月)
・米海軍早期偵察機が北朝鮮軍に撃墜される(4月)
・秋田書店が「少年チャンピオン」を創刊(7月)
・アポロ11号が人類初の月面有人着陸に成功(7月)
・TVドラマ「水戸黄門」シリーズが放送開始
・小学館が「週刊ポスト」創刊(8月)
・映画「男はつらいよ」(シリーズ第1作)が公開(8月)
・宇宙開発事業団が発足(10月)
・巨人の金田正一投手が通算400勝を達成(10月)
・国際反戦デー、新左翼各派が新宿で機動隊と衝突し1594人逮捕(10月)
・佐藤栄作首相が日米安保条約の延長のため訪米。新左翼が武装阻止狙い2500人以上逮捕(11月)
(編集担当:如月隼人)

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