中国留学時代、胸がキュンとなる思い出

中国に留学した経験があります。最初に入った学校は北京語言大学でした。外国人留学生への中国語教育を主眼とした大学で、それとは別に外国語を学ぶ中国人学生もいました。留学生と中国人学生の比率は、たしか2:1ぐらいでした。


私は「中級の下」といったクラスに入れられました。「会話」の授業がユニークでした。先生が、例えば


「あなたは今、自分の部屋にいます。誰かがノックしました」


と、ここで黒板をトントンと叩きます。


生徒の1人を指名して、「はい、なんと答えますか」と尋ねます。


どう答えてもよいのですが、考え込んでいると、叱責されます。「会話のキャッチボールが中断するようではだめだ」という理屈です。他にも「街で、知らない人に時間を聞かれた場合」、「商店で店員さんに『何を買いますか』と聞かれた場合」など、バリエーションがありました。


生徒の「返答」にもとづいて、「その言い方は、ちょっとおかしい」とか、「似た言い方で、これも覚えてください」などの指導がありました。


とても実践的な授業で、「会話というものは、多少アラがあっても、口から言葉を出さないと話にならない(あ、ダジャレだ)」ということにも、納得しました。でも、問題点もありました。


毎回の授業で、違う質問がぶつけられるのではなく、先生が、同じような質問をする場合があります。すると生徒はどうしても、すでに覚えた簡単な言い回しで答えるようになります。


「あなたは今、自分の部屋にいます。誰かがノックしました」


というシチュエーション設定では、そのうちだれもが「請進(チン・ヂン)」と言うようになってしまいました。「お入りください」という意味です。


さて、北京語言大学の当時の寮は、はっきりいって、かなりボロでした。ただ、トイレはさすがに、扉がついていました。中国のトイレには個室の扉がなかったり、横とのしきりすらない「ニーハオ便所」というタイプのものもあります。そこまでは、ひどくなかった。でも、トイレの個室の扉に鍵はついていませんでした。


トイレでしゃがんでいる時、だれかがやってきた気配。留学生も、出身国によっては、ノックの習慣がない場合があるようです。いきなりオープンとなってしまいます。だから念のため、中でせきばらいでもする。すると「人がいるな」と察してくれます。互いに気まずい思いをすることもない。(実用情報ですなあ)。


あるとき、日本人留学生のS君が、トイレの個室でしゃがんでおりました。だれか来たらしい。せきばらいでもしようと思った時に、ノックされた。この時、日ごろ会話の授業に熱心に取り組んでいた成果が出てしまった。


S君は、極めて正確な中国語の発音で、返答しました。


「請進!」


すると、ドアがバッと開かれた。思わず向き合う顔と顔。相手はそそくさとドアを閉め、立ち去ったそうです。


S君からその話を聞いた、日本人留学生一同は、笑いころげました。「お前はなんて、間抜けな奴だ」と。


S君は憮然として言いました。

「たしかに、オレは間抜けだった。しかし、お入りくださいと言われてトイレのドアを開ける奴は、もっと間抜けだ」――。


たしかに、その通り。いったい何を考えてドアを開けたのか。いまだに謎です。


ああ、楽しい時代だったなあ。今でも思い出すと、胸がキュンとなります。