中国古代音楽史を40年ぶりに書き換える発見、春秋初期の墓から「琴・瑟」が出土

 中国メディアの荊楚網などによると、湖北省の郭家廟曹門湾にある春秋戦国初期の墓から出土した漆塗りの木製物がこのほど、中国音楽史でもとりわけ重要な楽器の「琴(きん)」の、最古の実例であると確認された。中国音楽史にとって約40年ぶりの「重要な書き換え」という(「琴」は日本の「琴、こと」とは異なる楽器、解説参)。同じ墓室からは「琴瑟相和す(きんしつ、あいわす)」で知られる「瑟」も見つかった。

 

 これまでに見つかった最古の「琴」は1978年に発掘調査が行われた湖北省内の「曾侯乙墓」からの出土品だった。「曾侯乙墓」は、戦国時代初期の「曾」という国の「乙」という名の君主の墓で、紀元前433年ごろの墓葬とされている。

 

 発掘調査が行われた「郭家廟曹門湾」は春秋時代(紀元前773-同403年ごろ)の墓とみられている。「最古の琴」は約40年ぶりに、300年ほど歴史をさかのぼることになった。

 

 現代に伝わる「琴」は唐代ごろまでには形が定まり、弦も7本になった。「曾侯乙墓」では「10弦の琴」と「5弦の琴」が発見された。いずれも現在の琴とは形状が異なる。「10弦の琴」は、太く大きな共鳴度からはみ出して弦を取り付けられる「ネック」のような部分がある。

 

 郭家廟曹門湾の墓から出土した「琴」については、弦の数などについて報じられていないが、発表された写真を見る限り「曾侯乙墓」から出土した「10弦の琴」に近い形状であるようだ。

 

 また、郭家廟曹門湾の墓では、「琴」と同じ墓室から「瑟」も出土した。「瑟」も、これまでの出土品のうち、最も古いものという。

 

 孔子が周の初期から春秋時代の詩を編纂したとされる「詩経」には、夫婦の理想的な調和を意味する「琴瑟相和す」という句がある。「瑟」は「曾侯乙墓」からも出土している。専門家によると、さらに古い春秋初期の墓で見つかったことは、「琴と瑟の合奏形態の推移」を知る手がかりになるという。

 

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◆解説◆
 「琴(きん)」は漆塗りの木で作った細長い共鳴箱の上に7本の弦を張った楽器。フレットはなく、左手指で弦を共鳴箱に押し付けて長さや張力を調整して音程を決め、右手指でつま弾く。右手指で「人工の爪」は用いない。

 

 中国では、楽器と楽器を演奏する人の階級には密接な関係性があった。「琴」は最も高尚な楽器とされ、「琴・碁・書・画」は文人士大夫階級のたしなみとされた。孔子や李白も「琴」を愛したことで知られている。三国志演技でも諸葛亮(孔明)はしばしば「琴」を奏でる。

 

 時代が下るにつて「胡琴(二胡など)」、「鋼琴(ピアノ)、「提琴(バイオリン)」など、「琴」の文字を使って別の楽器を表すことが多くなったため、現在では区別のために「古琴(こきん、グーチン)」と呼ばれることがある。

 

 「琴」は遣唐使などにより、日本にも伝わった。正倉院御物にも、唐から伝わった「琴」がある。源氏物語では、光源氏が「琴の名手」とされる。一方、光源氏のライバルである頭の中将は「和琴(わごん)」をよくした。

 

 当時の状況からすれば、「唐文化のエッセンス」ともいえる「琴」の名手である光源氏の方が、日本土着の楽器の「和琴」の弾き手である頭の中将よりも「ひとつ抜きんでた存在」であることを暗示する描写と考えられる。

 

 また、当時にはやはり中国から伝来し、後の「日本のお琴」につながる「筝」も演奏されていた。

 

 当時の日本で「こと」という言葉は、弦楽器の総称として用いられた。そのため、「琴」は「きむのこと(きんのこと)、「筝」は「そうのこと」、「琵琶」は「びわのこと」などと呼ばれた。

 

 日本で「琴」は、10世紀半ばごろにはすたれてしまった。そのため、「琴」と「筝」の字義が混同されるようになり、「琴」の訓読みが「こと」となり、「筝」を表すことになった。

 

 江戸時代になると、論語など儒学関連の文献にしばしば登場する「琴」が、「日本の琴(こと)とは違うらしい」と気づく者が現れ、「孔子様が尊重した楽器」ということで、武士階級などに「琴のブーム」が出現した。現在でも、江戸時代に日本で作られた琴が、古い蔵から出てくることがある。(編集担当:如月隼人)

 

参考:
郭家庙曾国墓地出土春秋早期古琴 距今2700年左右(中国語)
曹门湾出土首张春秋早期完整瑟 (中国語)
「曾侯乙墓」からの出土楽器