日本は明朝滅亡時から中国征服を狙っていた=中国人ジャーナリスト

 中国人ジャーナリストの程万軍氏はこのほど、日本は明朝滅亡時(1644年)から中国征服の野望を持ち出したと主張する文章を発表した。歴史認識としては、かなり幼稚だ。

 

 文章は冒頭部分で、中国の中原地域に侵入した遊牧民族は、契丹にしろ女真にしろ、モンゴルにしろ満洲人の清にしろ、最初は中国征服ができるとは思っていなかったと指摘。最初にわずかばかりの侵入を試みて、成功したことで大胆になり、最後には中国全体の統治に向かって進むことになったと論じた。

 

 日本が「中国征服は可能だ」と思ったのは、明朝の滅亡を受けてからであり、日本人はまず満洲人の中国統治を認めなかったと主張。なぜなら、日本人は過去において中国文化を熱狂的に学んだからであり、胡人が統治する中国には先進性がなくなったと認識したと論じた。

 

 さらに、日本には中国文明の衣冠文物(衣服や冠などに象徴される儀礼や文化財)が比較的良好に残されており、日本人は自らこそが中華文化の伝承者とみなすようになったと主張。日本人こそが清を敵として東亜文化圏の精神的な指導者になる理由があると任じるに至ったと論じた。

 

 また、中国人が祖先から受け継いだ頭髪の型を辮髪に変えたことで、日本人は中国人は粗野だ感じ、清国を蔑視するようになったと論じた。そして清朝末期になり中国は、明治維新以降に西洋文明を導入した日本に一撃に耐えられなくなったと主張した。

 

 文章は日本のその後の動きについて、「琉球戦役」を挑発した際にも、清は兵を動かす勇気がなく、日清戦争では日本軍が「鎧袖一触」で中国軍を敗退させたことなどで、日本は中国征服の野心をさらに募らせたと論じた。

 

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◆解説◆
 程氏の文章は、歴史上の遊牧民族の中国侵入については、おおむね的を射ているが、日本人の対中意識については、実に杜撰な論理を展開している。

 

 まず、明朝滅亡時には台湾を拠点として清に対する抵抗を続けた鄭成功が日本に支援を求めたが、徳川幕府は応じなかった。徳川幕府が、豊臣秀吉の晩年の対朝鮮戦争(最終目的は明朝の制服)を、豊臣政権が滅亡した大きな原因のひとつとみなしていたのは確実だ。徳川幕府は清朝が成立すると、安定した貿易関係を構築することに腐心し、また李氏朝鮮との関係正常化にも努力した。

 

 国内統治の面でも、大名が戦国時代の気風を残すことを危険視し、文治の方向に舵を切った時期だ。鎖国という用語には問題があるが、日本史においてはどちらかと言えば「引きこもり」の時期であり、運送のための船にも外国に行かれないよう、大きさに制限を設けたほどだ。この時代の日本に「中国征服」の野望が芽生えたとは、とても考えられない。

 また、日本が統治の手段として儒学を重視したのは事実だが、江戸時代はむしろ、日本の独自性を強調する国学が発生し、盛んになった時期だ。国学は中国式の発想や社会の仕組みを、むしろ排斥した。日本に中国の古い文化を保っているは自らという意識はあったが、「中華秩序の正統な後継者」と自らを任じたのは、むしろ朝鮮だった。

 

 また、日本人が清国人の辮髪を、「遅れた社会の象徴」として軽蔑したのは、明治期になってから、特に日清戦争以降だ。日本人が西洋風の「ざんぎり頭」を採用したのに、中国人は古い習慣に固執しているとの理由だった。

 

 髪型の問題について言えば、江戸時期までの日本人は「ちょんまげ」という中国とは違う習慣を持っており、清国人の辮髪を見て「自らこそが中華文化の後継者」と意識したとの主張には、根本的な矛盾がある。

 

 上記文章では、明治期以降の日本側の意識についても、問題点が極めて多いが、ここでは具体的指摘を割愛する。

 

 程万軍氏は1968年生まれ。吉林大学外国語学院(学部)で日本語を専攻し、1991年に卒業した。2000年からは北京でジャーナリストとしての活動を開始。中国中央電視台(中国中央テレビ、CCTV)の番組「法律講堂」では、歴史問題を扱う「文史版」のキャスターも務めている。

 

 2013年に出版した「看透日本(日本を見透す)」は同年のベストセラーのひとつになった。(編集担当:如月隼人)

 

参考:・百年前日本两次试探中国军力的结果 (中国語)