本日は満州事変勃発85周年、中国・新華社は習近平の演説を改めて掲載

本日は1931年9月18日に、関東軍が奉天(現、瀋陽)近くで南満州鉄道線路を爆破した柳条湖事件から85周年に当たる。いわゆる満洲事変の勃発だ。中国国営の新華通信社は習近平国家主席が2015年9月3日の抗日戦争勝利70周年の式典で行った演説などを改めて掲載した。

習主席は同演説で、「中国人民が抗日戦争で、全世界が反ファシスト戦争で勝利した成果を疑うことは許されない、数千万人が独立と自由、平和のために贖(あがな)った代償を否定することは許されない」、「侵略戦争の性格を否定、侵略戦争を歪曲し甚だしくは美化する言動、侵略戦争という歴史上の責任から逃げる言動はすべて、いかなる形式で出現したものであろうと、いかに美化しようとも、すべて自らと他人を欺くものである」などと強調。

さらに、「中国人民の抗日戦争で果たした重要な意義」、「中国人民の抗日戦争が全世界の反ファシスト闘争で果たした重要な位置づけ」、「中国共産党の不動の支えとなった作用が中国人民の抗日戦争で勝利した鍵となったこと」などの研究と詳しい説明に力を入れていく」などと宣言した。

新華社記事は他にも、習主席が2014年12月13日に南京大虐殺記念館で行った、犠牲者追悼式における演説などを掲載した。

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◆解説◆
「満州」の正確な書き方は「満洲」であり、本来は地名ではなく「民族名」。

明朝時代、現在の中国東北地方やロシア領シベリア東部の日本海沿岸地方に住んでいたツングース系民族のジェシェン(女真、女直)が力を蓄え始めた。

後に清の太祖とされるヌルハチの子で清朝の事実上の創設者であるホンタイジは、モンゴルのリンダン・ハーン勢力との戦いに勝利し、リンダンの子のエジェイから元の玉璽を献上されたことをきっかけに、ジェシェンの民族称号を禁止して、「マンジュ」の民族名に統一した。

元の玉璽の入手したことは、チンギス・ハン以来の「大ハーン」としてモンゴル諸部族の支配者になったことを意味する。「ジェシェン」には「属民」という卑屈な意味合いがありふさわしくない。また、ホンタイジは、みずからの政権がジェシェンの血筋だけにもとづくのではなく、モンゴル諸部族に推戴される、中国が築いた万里の長城以北の広大な領域の支配者となったことを主張する意図をもって、民族名を「マンジュ」に改称したと考えられる。

マンジュという民族名の「文殊菩薩」に由来するとされるが、異説もある。「マンジュ」の漢字表記が「満洲(マンヂョウ)」だ。

モンゴル民族は諸部族に分かれ、世襲制による諸侯が分割統治をしていた。清朝期になり、諸侯が統治する領域は固定された(諸侯の領主化)。日本の江戸時代における幕藩体制と似た状況だったと考えてよい。清朝は膨大な人口を抱える漢土を支配するにあたって、モンゴルとの連携を極めて重視した。

そのため、モンゴル諸部族の支配地域には、漢人の入植を禁止し、立ち入りも厳しく制限した。しかし、清朝末期によると太平天国の乱や西洋列強の進入に対抗するために、宮廷内部で漢人官僚の発言力が強くなった。それらの背景により、清朝はモンゴル地域への漢人入植を認めることになった。なお現在の中国東北地方にも、多くのモンゴル人が住んでいた。

モンゴル人領主は利益を得るために、漢人勢力に土地を売り渡した。モンゴル人には本来、土地所有の概念がほとんどなかったことが背景にある。

放牧地を奪われたモンゴル遊牧区民は困窮した。1928年に関東軍の河本大作大佐を中心とするグループに爆殺された張作霖は(事件首謀者・実行グループには異説あり)、満洲地方における「土地ころがし」で巨額の資金を得た。そのため、日本が張作霖を殺したとして快哉を叫ぶモンゴル人が多かったと伝えられる。

柳条湖事件が発端となった「満州事変」の結果として成立した満洲国は、日本の意向を受けたこともあり、モンゴル遊牧民に土地を取り戻す政策を実施した。モンゴル人には大いに喜ばれたが、漢人入植者が大量に追い出されることになり、漢人には恨まれることになった。(編集担当:如月隼人)

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