だまって俺について来い

前にちょっと触れましたが、植木等大先生の話です。日本の流行歌手の歴史でもトップクラス、とくに表現力では抜群の存在だったと思います。



そこで今回取り上げるのが「だまって俺について来い」。この曲は、1996年に放送された「こちら葛飾区亀有公園前派出所(こち亀)」のテーマソングで、天童よしみが歌ったバージョンがあるので比較しやすい。

まずは、聞き比べていただきたい。

植木版(1964年)
http://www.youtube.com/watch?v=dJF_5-Lltwo


天童版(1996年)
http://www.youtube.com/watch?v=4q8R95Y_yaA&feature=related


まず、天童版のバックの音色は相当にチャチに聞こえます。まあ、これは歌い手には直接関係のない話。植木版の当時はギターなどの一部を除き、アコースティックの楽器をつかっていた。やっぱり、迫力があります。いや、それだけの問題じゃないかも。天童版は音色の作り方が、かなり安直に思えてしまう。

それはさておき、歌い方の違いです。最初にお断りしますが、天童よしみも、本当に上手です。アニメ版の歌い手としては、ベストの人選だったと思います。ただ、「表現の幅」では、どうしても違いが目立ってしまう。

たとえば、全曲で3回繰り返される「××のない奴ぁ、俺んとこへ来い!」という部分。植木等は、すべて表現を変えています。1回目は自信ありげに、2回目はあえて冷静に言うことで説得力を高めるように、3回目は力強く相手に有無を言わせないように。それだけで、ドラマを感じさせ、そして「結局は、自分に言い聞かせているのでは」と、聞き手の想像力をかきたてます。

天童よしみは、ほぼ同じことを繰り返している。やはり、この差は大きいなあ。天童よしみも多彩な音色の持ち主で表現力がある歌手ですが、とても及ばない。

もうひとつ注目したいのがイントロ部分の「馬鹿笑い」。植木等の「馬鹿笑い」を聞くと、「よくここまでできたもんだ」と思います。これを天童よしみに求めるのは、かえって気の毒というもの。総じて言えば、天童よしみは、どうしても「歌作品」という枠組みに、破綻なくおさめることを目標にしてるように思える。それには十分に成功しているのだけど、植木等の表現力は、枠組みというを突き破る力を持っている。

植木版で、少々気になるところといえば、音程のコントロール。これは、天童版の方が安定しているように聞こえます。とても聞きやすい。

ただ、この点も、話はそう簡単ではない。どうも、植木等の音感は、クラシックからポップス、歌謡曲に至るまで一般的な、1オクターブの中に12の半音を設けるという感覚とは違うみたいです。

簡単に言うなら、ピアノなどの鍵盤を思い浮かべてください。C(ドと考えてください)の1つ上の音はCis(Cシャープ、あるいはドのシャープ)。その間にある音は「音程はずれ」ということになる。しかし、例えば日本の音楽では、“ピアノの鍵盤には存在しない”微妙な音程を使うことが当たり前でした。

西洋音楽の立場では「微分音」と呼びますが、本当は話が逆。日本の音楽では、たとえば4度の音程(ドとファ)の音程はがっちりと決めますが、それ以外は微妙な音程を駆使して表現することが「常識」でした。つまり、日本の伝統音楽の立場からすれば、西洋音楽は「ごく限られた音程しか使えない」というわけです。

題名は忘れてしまいましたが、植木等主演の映画で神道の祝詞(のりと)のパロディーが出てくる部分があり、あまりにもバッチリと決まっていたので、仰天したことがありました。そういえば、別の映画では、都々逸から「これが男の生きる道」の歌につなげていく場所もあり、この都々逸部分も完璧に雰囲気を出していた。植木等の音感からすれば、西洋音楽とは違う音程を使うことも、表現方法の一部ということになる。

これは、植木等の幼年期の環境によるのかもしれない。比較的知られていることですが、父親は浄土真宗の僧侶でした。植木等は子どものころから、読経や声明(仏教声楽)を練習させられたそうです。そこに出てくる微妙な音感というのは、大きくなってからから学んでも身につけることはほぼ不可能で、昨今は本職の僧侶でも、昔に比べればきちんとできる人が減ってしまったと聞いたことがあります。

ということで、「だまって俺について来い」の植木版、「××のない奴ぁ、俺んとこへ来い!」の部分を聴いてみてください。歌から一瞬、言葉に移行する部分ですが、そこでも、微妙な音程感覚が保たれているので、結果として表現の選択肢が大きく広がっているような気がします。